72.ロナリオ

「マハト、あなたは無から有が生まれる、というのは信じますか?」

 ふいに、白いワンピース姿のロナリオ・スーリーが金髪を揺らし、マハトにたずねた。

 イリノイ州シカゴから、西南西に60キロほど離れた位置にある住宅地ネイパービル。その公園リバーウォークの脇腹に開けられたクアリー湖。

 クアリーとはすなわち、採石場という意味だから、この湖は人工湖ということになる。

 ちなみにクアリー湖という淡白な名前はアメリカにもいくつかあり、母語を同じにするイギリスにも存在する。

 ただ、人工湖とはいえ、その周囲はネイパービル設立の150年目を節目として、ボランティアと行政が力を合わせ、美しい公園を作ったため、今ではジョギングや散歩に適した場所となっている。

 マハトとスーリーは、湖を眺めながら、その会話を続けていた。

「なんだ、無から有が生まれるとか……量子重力理論の話か? それともアジアの国にある般若心経はんにゃしんぎょうという宗教論か?」

 マハトは湖畔からくる風に、チェックのYシャツを揺らしながら答えた。

「量子重力理論のほうは……真空から物質が生成される、という論から来たのでしょうが……般若心経は存じません。何ですか? それは」

「人生の見方と備えかたについて書いてある経文きょうもんだが、そこにある色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしきって言葉は、有はすなわち無であり、無はすなわち有だよって意味さ。この話はこれで終わりでいいか?」

 もう少しツヤっぽい話をしたいマハトが、中断を提案したが、スーリーは首を振った。

「いえ……あなたはスタンレー・ミラーという人物の話は知っていますか?」

「ああ。地球はもともと、隕石が集まってできた星。だからはじめの6億年は赤熱した石だけの星、いわゆるマグマオーシャンだったが、その星になぜ、有機物が生まれたのかを研究した人物だ。

 1953年、当時23歳だった彼は、仲間の研究者にバカにされないよう、実験をひとりでこっそりとおこなった。

 原始のころの海や大気を模すために、水、メタン、アンモニア、水素、水蒸気、それに少量の二酸化炭素をフラスコにいれ、加熱してエネルギーを供給し、雷にみたてる。そのまま放電させつづけて一週間、フラスコの底に赤褐色の物質が沈殿しだしたそうだ。その中には生体の構成物質であるアミノ酸も含まれていたそうだ。

 これにより、無から有が生まれる証明がされた……と言われたが、その実験には穴があった、と今では言われてるぞ?」

「そうです。ですが、いつもあなたが言っている話に、つなげられるような気がしているのです」

「あー……何発の水爆を南極にカマしたら、人類を死滅させられるかって話のことか? 言っとくけど、やる気はないからな? 俺、この世界は好きなんだぜ」

「あなたは……やりそうな気がしたので」

「なんでだよ。やる理由がない。お前まで死んじまうだろ。それに南極にはペンギンがいる。あんな可愛い動物たちを焼き尽くすなんて、俺にはできない」

「……なら、仮にやったことにしましょう」

「どんな仮定だよ。けっこう失礼だな……まあいい、続けて」

「あなたが人類を倒してしまったとします。それで人類や、ほかの生物も巻き添えになっても……たぶん、何も変わらないと思うのです。

 生物はこれまで、なんども大量絶滅してきました。2億年前には、地球の酸素が謎の理由で消失し、当時さかえていた海洋生物の96パーセントもの生物が死に絶えました」

スーパーアノキシア事件だな。すべての絶滅の母と呼ぶ学者もいるが。

 そのころの地層は、酸化していない砂鉄が多く見つかるとか、あの子が言ってたが……まさか、あの子の受け売りか?」

「はい……最近あの子は、昆虫に人間の遺伝子を組み込んだら、寿命は伸びるのだろうか? とか喋っています」

「俺以上に物騒な奴じゃないか。あれでまだ7歳なんだから、恐ろしいよ」

「はい……少しは子供らしくして欲しいのですが……なにぶん私もこんな性格なので。

 ――話は戻りますが、そのスーパーアノキシアののちには、こんどは恐竜が繁栄を築きます。

 ですが、これもまた白亜紀の6500万年前、メキシコ湾へ約15キロメートルの隕石が落下したことにより、その時代は終焉をむかえました」

「隕石落下による恐竜の絶滅ね。だがそれは、まだ仮説の段階じゃなかったか。いちばん支持されている仮説ではあるけどな」

「ええ、そうです。ですが、そうだったと仮定しましょう。げんに、その頃を境に恐竜は死に絶えたのですから。

 そして、恐竜がいなくなったおかげで、それまでネズミの姿で、恐竜におびえて震えていただけだった私たち人類が、進化することができたのです。絶滅と繁栄は表裏一体なのです」

「なるほどな。おもしろい。人類をほろぼすだけじゃ、何も変わりはしないってことか」

 マハトは腕を組んでから、続けた。

「物の重さは、密度によって変わるって話がある。

 つまり、大きなものを圧縮するだけで重力が強くなるってわけだ。1立方メートルの石を、半分に圧縮すると、同じ物のはずなのに、重くなるんだ。

 それと同じ理屈なのがブラックホール。

 ブラックホールっていうのは、重すぎて光も逃げられなくなってる星だから、あんなに暗いんだが、地球をそれと同じにしようとしたら、1.7センチにまで圧縮するといいそうだ。

 それには具体策もあって、たとえば海中に眠る重水素をすべて集めて核爆弾を作れば、地球をブラックホールにできる。これなら生命は続かない。

 これならどうだ?」

「やっぱり、破壊したいのではないですか」

「イヤ、違うっての……お前の議論に付き合ってるだけだろ……。

 それに、さすがに俺のパトロンの資金力でも無理だよ、重水素を残らずかき集めるなんて芸当は」

「たとえ、それができたとしても、やはり生命はほかの惑星で繁栄します」

「宇宙自体を無に返すしか、方法はないってことか。ビッグバンと逆の現象をビッグクランチと呼ぶが、さすがにそれを起こす知恵は湧かないな」

「そのビッグクランチによって世界はしじまに包まれたとしても、他の場所で宇宙は誕生します。

 そして、また同じように、生物がどこかからやってくる。

 でも、私が言いたかったのは、そんなことじゃないのです。

 ――マハト……あなたは生まれ変わりを信じますか?」

「生まれ変わり? いや、ちょっと……そういうのは」

「私は信じます」

 スーリーは自らの胸に手を当て、何かを誓うようにほほえんだ。

「この宇宙が何億回も、何兆回も……あるいは何京、何垓、那由多や無量大数を繰り返して生まれたり、消えたりをしていれば、一度は……きっと、私とあなたの身体を形作る素粒子が、いまと同じ状態で存在することもあり得るでしょう。

 だって、宇宙のやり直しは無限。

 ――いくら低確率でも、山から砂金一粒を見つけるようなことでも、無限の回数をこなすなら……それは確実に起こる、と言えませんか?」

「おいおい……100個のサイコロを同時に振って、すべてゾロ目にするだけでも無量大数分の1くらいの確率なんだぜ? 人間に直したら37兆個の細胞が、もといた位置につどうのは、それをはるかにしのぐ微細な確率だってことになるし、その細胞を形作る素粒子の数まで、もともとの人間の位置にもどるとなると、もう0コンマ以下を数えるだけで一生が終わるレベルになるだろう。とはいえ、かなりの暴論だが、嫌いではないよ。で、君はけっきょく、何が言いたかったんだ」

「ですから……宇宙をわざわざ無に帰すことはありませんよ。できるところで楽しんで、幸せになれたら……それでいいんじゃ、ないでしょうか」

 そう言って、スーリーは笑った。

「そして私は、次の宇宙でも、あなたに会いたい」

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