「マハト、あなたは無から有が生まれる、というのは信じますか?」
ふいに、白いワンピース姿のロナリオ・スーリーが金髪を揺らし、マハトにたずねた。
イリノイ州シカゴから、西南西に60キロほど離れた位置にある住宅地ネイパービル。その公園リバーウォークの脇腹に開けられたクアリー湖。
クアリーとはすなわち、採石場という意味だから、この湖は人工湖ということになる。
ちなみにクアリー湖という淡白な名前はアメリカにもいくつかあり、母語を同じにするイギリスにも存在する。
ただ、人工湖とはいえ、その周囲はネイパービル設立の150年目を節目として、ボランティアと行政が力を合わせ、美しい公園を作ったため、今ではジョギングや散歩に適した場所となっている。
マハトとスーリーは、湖を眺めながら、その会話を続けていた。
「なんだ、無から有が生まれるとか……量子重力理論の話か? それともアジアの国にある
マハトは湖畔からくる風に、チェックのYシャツを揺らしながら答えた。
「量子重力理論のほうは……真空から物質が生成される、という論から来たのでしょうが……般若心経は存じません。何ですか? それは」
「人生の見方と備えかたについて書いてある
もう少しツヤっぽい話をしたいマハトが、中断を提案したが、スーリーは首を振った。
「いえ……あなたはスタンレー・ミラーという人物の話は知っていますか?」
「ああ。地球はもともと、隕石が集まってできた星。だからはじめの6億年は赤熱した石だけの星、いわゆるマグマオーシャンだったが、その星になぜ、有機物が生まれたのかを研究した人物だ。
1953年、当時23歳だった彼は、仲間の研究者にバカにされないよう、実験をひとりでこっそりとおこなった。
原始のころの海や大気を模すために、水、メタン、アンモニア、水素、水蒸気、それに少量の二酸化炭素をフラスコにいれ、加熱してエネルギーを供給し、雷にみたてる。そのまま放電させつづけて一週間、フラスコの底に赤褐色の物質が沈殿しだしたそうだ。その中には生体の構成物質であるアミノ酸も含まれていたそうだ。
これにより、無から有が生まれる証明がされた……と言われたが、その実験には穴があった、と今では言われてるぞ?」
「そうです。ですが、いつもあなたが言っている話に、つなげられるような気がしているのです」
「あー……何発の水爆を南極にカマしたら、人類を死滅させられるかって話のことか? 言っとくけど、やる気はないからな? 俺、この世界は好きなんだぜ」
「あなたは……やりそうな気がしたので」
「なんでだよ。やる理由がない。お前まで死んじまうだろ。それに南極にはペンギンがいる。あんな可愛い動物たちを焼き尽くすなんて、俺にはできない」
「……なら、仮にやったことにしましょう」
「どんな仮定だよ。けっこう失礼だな……まあいい、続けて」
「あなたが人類を倒してしまったとします。それで人類や、ほかの生物も巻き添えになっても……たぶん、何も変わらないと思うのです。
生物はこれまで、なんども大量絶滅してきました。2億年前には、地球の酸素が謎の理由で消失し、当時さかえていた海洋生物の96パーセントもの生物が死に絶えました」
「スーパーアノキシア事件だな。すべての絶滅の母と呼ぶ学者もいるが。
そのころの地層は、酸化していない砂鉄が多く見つかるとか、あの子が言ってたが……まさか、あの子の受け売りか?」
「はい……最近あの子は、昆虫に人間の遺伝子を組み込んだら、寿命は伸びるのだろうか? とか喋っています」
「俺以上に物騒な奴じゃないか。あれでまだ7歳なんだから、恐ろしいよ」
「はい……少しは子供らしくして欲しいのですが……なにぶん私もこんな性格なので。
――話は戻りますが、そのスーパーアノキシアののちには、こんどは恐竜が繁栄を築きます。
ですが、これもまた白亜紀の6500万年前、メキシコ湾へ約15キロメートルの隕石が落下したことにより、その時代は終焉をむかえました」
「隕石落下による恐竜の絶滅ね。だがそれは、まだ仮説の段階じゃなかったか。いちばん支持されている仮説ではあるけどな」
「ええ、そうです。ですが、そうだったと仮定しましょう。げんに、その頃を境に恐竜は死に絶えたのですから。
そして、恐竜がいなくなったおかげで、それまでネズミの姿で、恐竜におびえて震えていただけだった私たち人類が、進化することができたのです。絶滅と繁栄は表裏一体なのです」
「なるほどな。おもしろい。人類をほろぼすだけじゃ、何も変わりはしないってことか」
マハトは腕を組んでから、続けた。
「物の重さは、密度によって変わるって話がある。
つまり、大きなものを圧縮するだけで重力が強くなるってわけだ。1立方メートルの石を、半分に圧縮すると、同じ物のはずなのに、重くなるんだ。
それと同じ理屈なのがブラックホール。
ブラックホールっていうのは、重すぎて光も逃げられなくなってる星だから、あんなに暗いんだが、地球をそれと同じにしようとしたら、1.7センチにまで圧縮するといいそうだ。
それには具体策もあって、たとえば海中に眠る重水素をすべて集めて核爆弾を作れば、地球をブラックホールにできる。これなら生命は続かない。
これならどうだ?」
「やっぱり、破壊したいのではないですか」
「イヤ、違うっての……お前の議論に付き合ってるだけだろ……。
それに、さすがに俺のパトロンの資金力でも無理だよ、重水素を残らずかき集めるなんて芸当は」
「たとえ、それができたとしても、やはり生命はほかの惑星で繁栄します」
「宇宙自体を無に返すしか、方法はないってことか。ビッグバンと逆の現象をビッグクランチと呼ぶが、さすがにそれを起こす知恵は湧かないな」
「そのビッグクランチによって世界はしじまに包まれたとしても、他の場所で宇宙は誕生します。
そして、また同じように、生物がどこかからやってくる。
でも、私が言いたかったのは、そんなことじゃないのです。
――マハト……あなたは生まれ変わりを信じますか?」
「生まれ変わり? いや、ちょっと……そういうのは」
「私は信じます」
スーリーは自らの胸に手を当て、何かを誓うようにほほえんだ。
「この宇宙が何億回も、何兆回も……あるいは何京、何垓、那由多や無量大数を繰り返して生まれたり、消えたりをしていれば、一度は……きっと、私とあなたの身体を形作る素粒子が、いまと同じ状態で存在することもあり得るでしょう。
だって、宇宙のやり直しは無限。
――いくら低確率でも、山から砂金一粒を見つけるようなことでも、無限の回数をこなすなら……それは確実に起こる、と言えませんか?」
「おいおい……100個のサイコロを同時に振って、すべてゾロ目にするだけでも無量大数分の1くらいの確率なんだぜ? 人間に直したら37兆個の細胞が、もといた位置につどうのは、それをはるかにしのぐ微細な確率だってことになるし、その細胞を形作る素粒子の数まで、もともとの人間の位置にもどるとなると、もう0コンマ以下を数えるだけで一生が終わるレベルになるだろう。とはいえ、かなりの暴論だが、嫌いではないよ。で、君はけっきょく、何が言いたかったんだ」
「ですから……宇宙をわざわざ無に帰すことはありませんよ。できるところで楽しんで、幸せになれたら……それでいいんじゃ、ないでしょうか」
そう言って、スーリーは笑った。
「そして私は、次の宇宙でも、あなたに会いたい」