74.外説・理想の世界(1)

 2年前の冬。

 水爆の男による文明破壊により、アスファルトの消滅した大地には、草木が存分にみなぎり、この島国に人間の文明が打ち立てられる以前の姿が取り戻されていた。

 500年前には、人間は自然保護をしきりに訴えていたが、皮肉なことに、その人間がいなくなったとき、自然保護は完遂かんすいされたのである。

 アブラゼミは木々に張り付き思うままにいななき、ナツアカネは野に川に望むまま飛び、それらを食べることを期して、鳥獣が人里を気にすることもなく集まる。

 地球は、新生代初期の多様性をたたえるようになっていた。

 ゆいいつの人間郷セントデルタをのぞいて。

 敷石がメンテナンスを受けながら存続し、建築物がしっかりと雨風をしのぎ、田畑には計画的に稲麦がみのる場所は、このセントデルタだけとなっていたのである。

 リッカ初の自警団長としての仕事は、セントデルタの街を一周しながら、東のゴドラハンの森を巡回し、戻って西のポヨヨヨンの川へ渡り、それに沿って歩いてから街へもどる、という、どこから見ても刺激を欠いたものだった。

「ご苦労だった、リッカ」

 自警団管轄の『アクアマリン詰所』で、エメラルドの槍を松の槍掛に立てたところで、たまたまそこで団員と話をしにきていたエノハが、リッカをねぎらってきた。

「エノハ様……こちらにいらしたんですか」

 ロウソクの灯火に横顔を照らされるエノハに、リッカは神との出会いに対する感動も感嘆もなく、とつとつと返した。

 それはあたかも、毎日顔を合わせる両親のように、有り難すぎてそれに慣れてしまったかのような反応だった。

 この反応はリッカだけがとるものではなく、たいていの人間が、このような態度でエノハとのぞむ。

 それほどまでに、エノハというのは、人々に近しい存在だった。

「塔でふんぞり返っていても、つまらんからな……で、変わりはなかったか」

「エノハ様が最後にアジンやツチグモ、そしてラストマンと戦ったのが、100年以上も前。

 平和そのものですよ。享楽きょうらくの男ゴドラハンもいない、水爆の男フォーハードもいない、彼の作った殺人機械もいないこの世界に、これだけの自警団員なんて必要なんですか? あたし以外の自警団員はふだん、自分の職をやってるといっても……いまの人類の敵といえば、見えない放射線か冬眠明けのクマぐらいのもんっしょ」

 ラストマン。

 家電の延長線上にすぎないアジンと違い、ラストマンはかつての水爆の男フォーハードにより、戦争を目的として作られた人型機械である。

 ツチグモが戦車のように敵戦力をき潰すためのものだとするなら、ラストマンは敵の拠点や街をまるごと制圧し、そして占拠するためのものである。

 人型やそれに類する形状をしているのも、狭い場所に人間が隠れているのを見つけ、殺害するためであって、追加装甲をすべて取り外せば、子供にしか行けない場所にも潜り込むことができるほど、細身にもなれる。

 小回りのきかないツチグモの護衛もよくするが、ラストマン単体での戦闘力も計り知れない。

 ラストマンはツチグモ同様、常温核融合で動くため、何年でも動き続けることもでき、そこから生まれるパワーは、人間が白兵戦で発揮できるものをはるかに凌駕りょうがする。

 そして何よりも……ラストマンは制圧用のマシンゆえに、ツチグモにさえ常備されなかったシステムを内蔵していた。

 NBC兵器を、その腹部に蓄えているのだ。

 NBC――nuclear(核兵器)、biological(生物兵器)、chemical(化学兵器)の頭文字をとったものである。

 いずれも広範囲に、軍にも民にも見境なく被害を与えることのできる兵器だ。

 これらは敵を無力化するだけでなく、障害で苦しめたり、土地を汚染して住めなくする効果も表すため、非人道の兵器と呼ばれ、『表向きは』み嫌われた。

 1925年のジュネーブ条約や、のちのラッセル・アインシュタイン宣言、およびPAC3やG8会議、G7会議、そのほかさまざまな国際会議、国連などでたびたび完全廃棄あるいは使用制限が唱えられてきた兵器だったが、けっきょく文明消滅まで、これらは根絶やしにできなかった上に、そのすべてをフォーハードに利用された。

 つまりラストマンは、腹の中に小型核爆弾や、炭疽たんそ菌、VXガスなどを仕込んでいるのである。

 だが、その殺人機械も、いまはこの島国にはいない。

 100年前、エノハ及びセントデルタ人たちで、何とかこのラストマンを駆除することができたからだ。

 とはいえ、その戦いは、想像を絶するものであったのは、間違いないことだろう。

「何かあるときのために必要なのだ。それに対応するには、兵を常備するしかあるまい。ツチグモもラストマンも、この島国で見ることがなくなったに過ぎん。この平和も環境も、今後も約束されていることでもないのだ」

「あたしにゃー、わかりません」

 リッカは適当に返事をして、そのまま思考放棄した。

 その消極的なリッカの様子を、横目に観察していた自警団員が、わずかに顔をしかめながら見つめていた。

 ――こんな、いい加減な奴が我々のトップでいいのか……という視線なのにはリッカも気づいていたが、どうにかしようという気概もリッカには湧かなかった。

 リッカが投げやりなのも、それなりに理由があった。

 そもそもリッカがやりたかったのは、自警団長などではなく、看護師。

 小学校卒業から、さらに4年かけて実習と勉強をかさね、やっとその仕事の知識を満たした……というところで、エノハによって、自警団長就任の勅命ちょくめいが発せられたのである。

 リッカにとってそれはあたかも、何年もかけて組み立てた積み木を、知らぬ人間にぶち壊された感覚に近かった(エノハの評価は神というより、人々のリーダーという認識のほうが強い。その感覚を例えるなら、旧代の学校の、生徒会長ぐらいに対する尊敬の念と同程度。これはセントデルタの人口がたった1万人だからであって、これから時代が進み、人口が100万や1億になれば、人々のエノハの尊崇の念も強まるはずである。人間というのは会えない人間や、共通の知人が多い人物、あるいは有名だが死んでいる人間には、脳内で尊敬や畏怖の念を強めるのである)。

 本当にやりたいことを押しのけて、いきなりの人事。

 この仕事に本腰が入らないのも無理からぬことではあるが、自警団長は町長さえもしのぐ権限を預けられた地位。その稀有けうなる地位に本気で取り組まないリッカを、周囲は歓迎的には考えられないのである。

 ――あなたなら誰よりもうまくその強権を使える、と信じたから、任せたんじゃないかな?

 正式に任命が降りたとき、その職を疎むばかりで喜ばないリッカに向けて、クリルはそう言って励ました。

 だが、親友にそう請けあってもらっても、リッカは全然嬉しくなかったのである。

「……お前は初めての職務に疲れているのだ。報告書は副官に任せて、帰れ」

「……は、はい」

 リッカはしゅんと肩を落とし、結局すぐに詰所を出て行った。

 本腰を入れたくとも、入れられない。

 その事実は、まじめなリッカをしつこく打ちのめした。

 あきらかにリッカは、この職分を持て余していたのである。

「ハァ……あした、辞めさせてもらえないか、掛け合ってみるかなぁ」

 リッカはひとりごちてみたが、そのネガティブな言葉かげんに、さらに気分が落ち込んだ。

 職務放棄という不名誉な響きが、リッカの頭をかすめたのだ。

 進んでも退いても、自分には良いことがなし。

 リッカはすっかり暗澹あんたんとした思考に陥りながら、家路であるアクアマリンの敷石を歩いていた。

 だが。

 そこでリッカは何かの気配に気づいて、うしろを振り返った。

 うしろを、エノハがリッカの歩幅に合わせてついてきていた。

「エ、エノハ様……? どうしたんですか」

「いや……お前と話してみたいと思っただけだよ。私が選んだ、セントデルタの守り手のことを知りたいと思うのは、いけないことか?」

「い、いえ……」

 リッカはどぎまぎしつつ否定した。

 辞めたいと独り言を呟いていたのが聞こえていないか、心配になったのだ。

 そのおかげでリッカはこのとき、辞意表明するタイミングを、完全に失った。

「固くなるな。アレキサンドライトの塔へ戻るのに、私もここを歩くしかなかろう?」

 もっともらしく説明しながら、エノハがリッカの隣に並んだ。

「エノハ様……なぜ、あたしを自警団長に選んだんですか」

「500年かけて培った人間観察のノウハウをうまく伝えるのは難しい。誤謬をおそれず告げるなら……そうだな、お前には底知れぬものを見たからだ」

「底知れぬ……? あたしが?」

「そうだ。今はまだ花開いてはおらんが……自警団長となるとき、おのずと垣間見えることになろう。私はそう確信している」

「あ……あたしが? イヤそんなの、ありえんですよ、あっはっは」

 リッカは上ずった声で返したあと、にわかに笑い出した。

 だが、大きく笑ったことで、エノハが無礼を怒るかとも思ったが(それでエノハが怒り出して自警団長をクビになるなら、それでもいいと思った)、エノハのほうは暖かく笑うのみだった。

「あの偏屈へんくつ者のクリルと、付き合いが長いそうだな」

「う……いえその……はい」

 リッカはしどろもどろに答えた。

 小学生時代からの親友・クリル。

 クリルはエノハと顔を合わせれば、常にエノハに向けて、問題や課題、果ては文句まで、エノハに包み隠さずぶちまけてしまう。

 ときにはエノハもクリルも、顔を真っ赤にしながら言い合うときもあったから、たとえエノハから振ってきた話題であっても、リッカとしては、あまりクリルの話題を、セントデルタの神の前でしたくはなかった。

「あの……エノハ様」

「何だ」

「なんで、エノハ様のところで5年もかけて育てていたファノンを、クリルに預けたんですか。ずっとあの子を、エノハ様のそばに置いても良かったのに」

 ファノンは5歳のときに急性白血病を発症したことで、その療養のため、超医療システムのそろうアレキサンドライトの塔に移送された。

 その完治がみとめられたのは、ファノンが10歳のとき。

 だがこのときにはファノンの両親もこの世にはなく、誰もファノンを人里に帰せと申し出る者もいなかったのである。

「私もあの子を街に戻すつもりはなかった。実のところ、あの子の病気は1年もすれば完治していたのだ」

「あー……だからあの子、塔に住んでるころから普通に小学校に行ってたんですね」

「勉強はしなかったがな」

 エノハが苦笑するが、その瞳はまるで、戻ることのない、壊れた大事な時計を見るような視線だった。

「治っていたのに、人里に返さなかったのは……その……深いお考えがあってのことですか? もしかしたら、いきなり白血病がぶり返して、心臓を抑えて急死する心配があったかもしれなかったから……とか?」

「いや……共に暮らしたことで、情が湧いただけだ」

「そう、なんですか……あたしはてっきり、ひとかたならない理由かと思ってました」

「買いかぶりだよ、それは。だがある頃から、あの子は塔のテラスから、街を眺めていることが多くなった。とくに見ていたのは、夜の窓からこぼれる、たくさんの光だった……別れの時期が来たことを悟ったよ」

「そう……だったんですか」

 リッカは意外だと言わんばかりに眉をあげて、共に歩くエノハの横顔を見た。

 言いづらい話だからなのだろう、エノハは少しばかりばつが悪そうに、頬に片手を添えていた。

 それは、リッカがいつも勝手に想像していたエノハ像と、なにもかも違う反応だった。

 リッカが想像していたエノハとは、常に迷わず、常にセントデルタの大義以外には目もくれず、常に冷徹に物事を判断し……とうぜん、たかが一人の子供との5年の付き合いに終止符が来ても、何も感じない、というものだった。

 だがリッカの質問にいま、エノハは相当にナイーブな表情を示したのである。

 女神とはかくあるべし、と決めつけていたことが、小気味よく崩れていく。

 遠巻きにしていたエノハのことを、リッカは急に親しい相手に思えてきたのだ。

「しかし、よりにもよって、何でクリルにファノンを託したんですか。クリルがあの子に、あることないこと吹き込むかもしれなかったのに」

「ふふっ……お前はクリルが、ありもしないことをでっちあげる女だと思っているのか?」

「え、いやそれは……断じてありません。あの子はそんなことをする子じゃないって、わかりますもん」

「そう、彼女は私とは対極なのだ。だからこそファノンには、私側からだけセントデルタを盲目的に見るような人間に育ってほしくなかった」

「それで、政敵とも言えるクリルにファノンを預けたんですか……」

 自分には、とてもではないが選択できない方法だとリッカは思った。

 自分と敵対する者に、最愛の者を預ける。

 そこにリッカは、この女神の器量というものを見た気がした。

「私は女神だからな。人間の幸せを考えなくてはならんのだ……」

 エノハは左手に開けた横道通りを向くと、そちらに歩き出した。

 その先にはエノハの住まう、アレキサンドライトの塔が真ん前にそびえていた。

「私はこちらだから、お前とはここでお別れだ。明日もこいよ」

 エノハは何か満足げに告げると、そのまま通りを過ぎていった。

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