76.外説・理想の世界(3)

 翌日。

「サクラタ・イセン、ディ・アーズ、ハガ・ナイ、ソラノヲト・シモノ、イチゴヒャ・クパーセント……」

 この言葉をつぶやくとともに、ファノンの心に大いなる勇気があふれだす。この祝詞のりとの前では、いかなる負けフラグも死亡フラグも、意味をなさなくなるのだ。

 そしてファノンは、次の行動を、いっさいの迷いもなく、おこなうことができるのである。

 場所はルビー・サファイア銭湯。

 かつて日本という国でさかえた、風呂というものを模したもので、玄武岩の湯船にたっぷりと湯が張られているほかは、それと同等の広い洗い場があって、他人と混ざって身体を洗えるようになっていた。

 男湯と女湯を隔てるものは、ただ一列にそびえる竹の壁だけだった。

 その竹壁に向けて、ファノンは自分のみが使える『謎の黒い球体』能力を用いて、穴を開けきっていた。

「キャー」

「ファノンが女湯をのぞこうとしてるわー」

「変態よー」

「どエロよー」

 と、うしろの湯のほうから、少年たちが女湯に聞こえるほど大きな声で茶々をいれる。

「バッ、バカ! バレるだろうが、お前ら黙ってろよ。今やっと壁に穴を開けられたんだからな。見てろよお前ら、俺がお前らに……なんか色々教えてやるからな。形とか! 形とかっ!」

 そう言ってファノンは、満を持して、その穴に目玉をあてがった。

 そこでは、かなり近い場所に、白く、丸い女性の部位が見えた。

「ふほっ、こ、これは……丸い膨らみ、そして白く暖かそうなもの……間違いない、これは…………………肘!」

 それがファノンの意識が吹っ飛ぶ直前に見えた、最後のものだった。

 それは、荒々しく竹をぶち破りながら、ファノンの顔に杭のように突き刺さった。

「モルスァっ!」

 ファノンの体は、吹き飛ぶ顔面に引きづられるようにして、濡れた床を回転しながら滑っていった。

「キャー」

「今日もファノンが殴られたわー」

「ださーい」

「きもーい」

 男どもがムサムサとした声をあげる。

「……りないね、ファノン」

 変態男ファノンを退治した人物は、バスタオルでがっちり体を守った状態で、割れ落ちた竹の柵から、姿を現した。

 クリルだった。

「グ……今読んでいるマンガで、俺はくじけないことを学んだんだ…………聖サクライ・トモキ……この俺に力を……」

「それって何かのキャラ?」

「今月はハーレムマンガ強化月間なんだ。ハーレムだけじゃなく、女キャラが多い作品もひたすら読んでるんだがな。サクライ・トモキはかっこいいんだぜ?」

「あなたの強化月間なんか知らないよ。これは何のマネ?」

「このファノン・アルフレッド・フォレスターが、感情の発露に従った結果がこれさ……うぷすっ」

 言い終わると同時に、ファノンの顔にクリルの足の裏が、杵のように落ちた。

「そう、それを遺言にして、いまから頭が砕け散るわけね? あなたは」

 そう告げて、クリルはファノンの顔に乗る足を、強くえぐりながら踏み込んだ。

「いいいいっ、痛っ、痛いっっ! 続かなくなる! 2年後に続かなくなるゥゥゥっ!」

「あんまりメタなことは言わないでよ」

 そこでクリルは足をどけた。

「もうお風呂も堪能したでしょ? 出るよファノン」

「ふぅ……仕方ないな」

 ファノンは渋々立ち上がると、ごく自然にクリルのあとをついて、竹の壁が砕けてつながった女湯のほうへ入ろうとした。

 その瞬間、ファノンの両目に、固形石鹸せっけんが突き刺さった。

「めめたぁっ!」

 ファノンはふたたび床の上に背中で滑り込み、ジタバタともんどり打った。

 どうやら、それは女湯にいたモンモの仕業らしかった。

「モンモ……けっこうやるね」

「そうかな? 彼のお尻にも、もう一つ投げようと思ってるんだけど」

 そう言って、岩縁に腰掛けているバスタオル姿のモンモが、指二本にはさんだ、よく尖った竹片をかまえた。

「それは構わないんだけどね。埒があかなくない?」

「え? 構わないの? ありがと」

 モンモの手が消えた……と思うほど、それは素早く動いた。

 ふとクリルがファノンのほうへ振り返ると、ファノンの尻に立派な竹の尻尾が生えていた。

 ファノンは不恰好にも、尻を突き出したうつ伏せ状態のまま、ピクピクと痙攣けいれんしていた。

「モンモ……あなたねえ……」

「だって私、あなたの言葉を聞く義理なんてないじゃない。あなたのこと、嫌いだって言ってるでしょ」

「はぁ……もういいよ、あたしは先に上がっとく」

「ファノンはどうするの?」

「そのうち、復活するでしょ。2年後にはピンピンと五体満足で出てきてるわけだし」

「メタだね、やっぱりあなたたち、姉弟みたいだよ」

「あっちはあたしをお姉ちゃんとは呼ばないんだけどね」

 そう語らいながら、このふたりの不仲コンビは、申し合わせてもいないのに、全く同じタイミングで、ともに脱衣場に向かった。

 と、クリルが先んじてスライド式のダイヤモンドの扉をあけたところで、そこにいたメイが、いきなり泣きながらクリルの胸に飛び込んできた。

 メイは服を着たまま、クリルの胸に顔をうずめ、ただ涙でしゃくりあげるだけだった。

「メ、メイ……どうしたの」

 クリルは目を白黒させながらたずねたが、どうやら脱衣場にいる数人の少女たちも、みな一様にまごついている様子だった。

 そこにクリルとモンモはただならぬものを感じ取り、おたがいの顔を見合わせてから、メイになおった。

「メイ、落ち着いて教えて。何かあったの?」

「リッカさんが」

 メイは涙でのどを詰まらせながら、なんとか声を絞り出して続けた。

「リッカさんが、エノハ様の暗殺をたくらんだ、とか言われて、自警団に逮捕されたそうなんです」

「!?」

 クリルがその言葉に絶句した。

「リッカが、逮捕……? それにエノハ様が暗殺されかけた? どういうこと?」

 モンモが疑問符を立て続けに泳がせ、首をかしげた。

 初めて聞いたニュースだった。

 エノハの暗殺未遂という、ほとんどのセントデルタ人が知らない話。

 なぜならこれはセントデルタの首脳が、緘口かんこう令によって閉ざしていた情報だったからだ。

 それがなぜか、メイの口から、伝えられたわけである。

「私もわかりません。でも街の人がみんな、言ってるんです」

 メイが涙目になりながら、クリルに訴えかけた。

「いったい、何が……とにかく、ここを出よう。メイ、悪いんだけど、ファノンにも伝えといてくれる?」

「はい、わかりました」

 メイはうなずくと、すぐに背を返していった。

「いいの? クリル。あの子がそれを知ると、何をするかわからないよ? だって、あの子は一番エノハ様とお付き合いが長かった人間じゃない……私なら、いてもたってもいられないよ」

 モンモが言外に反対論をにじませてきたが、クリルはそれを悟ってなお、首を振った。

「確かにね。あの子がどんな軽挙に出るか、あたしでさえ予想がつかない」

「ん……たしかにファノンなら、変な自爆をしそうだよね。ねえクリル。ファノンのことは、私に任せてもらえないかしら」

 モンモが自信ありげに、け合いをつけてきた。

「何か良い考えが?」

「ファノンを抑えるのに、適任の人がいるからね。その人を頼りに」

「……?」

「とにかく、行ってくるよ」

 そう言うとモンモは、さっと身体をタオルで拭いて着替え、その場をあとにしていった。

「……」

 クリルもまた服を着たが、こちらは神妙な表情であごに手を添えて、その場から動かなかった。

 クリルはこの事件に神妙なものを嗅ぎとっていたのである。

 そのクリルの横に、メイが立った。

「クリルさん……? まだこっちに? そろそろ入り口に出てないと、ファノンが暴走しますよ」

 メイが心配そうにしながら、更衣室に戻ってきた。

「ああ、ごめん。ちょっと考え事をね……ファノンには伝えてくれた?」

「はい。あいつ、エノハ様がお怪我をされたって話したとたん、服も着ないまま飛び出そうとして……抑えるのが大変でした」

「まあ、そうなるよね」

 クリルはそこで、くすっと笑いかけたが、またすぐに難しい顔色にもどった。

「ファノンと合流しとかないとね、行こ、メイ」

 そうメイを促しながら、クリルたちは出口へ向けて歩き出した。

「……クリルさん、いったい何を考えてたんですか?」

「ん……何で、エノハの事件のことが、メイや街の人から出てきたのかなって思って。普通こういうのって、町長とか自警団長とか……せめて自警団員から出るものじゃない? それなのに町長はだんまり。自警団長に至ってはしょっぴかれてるから、自己弁護さえできない。

 ――ねえメイ。どこからその話を……誰からそれを聞いたの?」

「喫茶店で友達とお茶をしてたときです。となりのテーブルの人が、金属の、人間の片手みたいなものをテーブルに投げながら、エノハ様がお怪我をされたって話を。これはその片手だと……」

「おかしな話だね。なんでアレキサンドライトの塔にエノハを運ぶとき、そんな大きな部品を忘れたのか。くっつくかどうかはともかく、そんな部品は、エノハと同じ場所に持っていくもんでしょ」

「あ……そういえば……たしかに、そうですね」

「そいつらが実行犯の可能性があるね。顔は覚えてる?」

「すいません、そのときは、そこまで考えてもなかったです。そのエノハ様の片手って言われてる物くらいしか見てなくて……。

 でも青っぽい服を着てるのだけは覚えてます」

「それだけわかれば充分でしょ。あとはアレキサンドライトの監視カメラをエノハに使わせてもらって、喫茶店から出てくる青い服の男を調べればいいしね。問題は、そのヒマがあるかどうか、だね」

「そのヒマが、ないかもしれないってことですか?」

「うん、首謀者は最低でも、エノハを半壊にする必要があった。でないと、あたしが今言ったようなやりかたで、犯人をすぐに特定できるからね。でもそれをするには、アレキサンドライトの塔の管理者たるエノハが、少なくとも身体を自由に動かせないといけない。それを妨げてる間に、そいつらは完全にエノハを破壊しなければいけないってわけね」

「首謀者……ってことは、クリルさんは、犯人は単独じゃないってにらんでるんですね?」

「うん、まあね」

 クリルはうなずき、銭湯の扉を横にスライドさせ、外のルビー・ガーネット通りに出た。

 そこではファノンが待っていたが、少しばかり不可思議な光景が広がっていた。

 ファノンは、ゴンゲン親方に正面から羽交はがめにされて、身動きできずに青い顔をしていた。

「は、はなして、親方……くるし……」

「わかる! わかるぞファノン! エノハ様を暗殺しようとしたやつを、ぶん殴りに行くんだろう!? そうだ、それでいい! 千里の道も努力からだ!」

「そ、そう……だから……離して……」

「お!? 殴りに行きたいだと?! ヨシ行こう!!」

 ゴンゲンは丸めた布団ふとんでもかかえるように、ファノンを小脇にして、クリルたちに背を向け、どこへともなく歩き出した。

「クリル! ファノンを借りるぞ!!!!!」

「ちょっと、ゴンゲン。犯人を殴りに行くのはいいけど、どこの誰かとか、わかってるの?」

「わからん!!!!!!!!!!!!!」

「じゃあ、どこに何しに行くのよ。それより、みんなで知恵を出し合おうよ」

「30分では何もできないと諦めているより、世の中で一番くだらんことを努力するほうがいい!!!! これはゲーテだったか!!!!」

「イヤ、だから知恵を出しあおうって……あとそのゲーテの言葉、努力ってフレーズ、どこにもないから」

「ファノン!! 行くぞ!!!!!!」

「ちょっ……クリル……ボスケテ……」

 ファノンはけっきょく、ゴンゲンに抱えられたまま、その場から連れ去られていった。

「……はぁ……たしかに、うってつけの人物だったよ――モンモ」

 クリルは顔をしかめながら、うしろを振り返った。

 そこにはモンモが、得意げな表情で両手を腰にえて、胸を反らせていた。

「どお? ファノンも人の話を聞かない子だけど、それ以上に人の話を聞かない人をあてがったら、ホラ、あの通り」

「……ファノンを守ってくれるのは間違いないね。あたしなら、絶対にやらない方法だけど」

「あなたのそういう所が嫌いなんだけど、まあ今はいいわ。で、聞かせてよ、クリル。おおよそ、その犯人とやらの筋書き、あなたなら見抜けてるんじゃないの?」

「まあね、あのね……」

 クリル、メイ、モンモは並んで往来を進みながら、先ほどメイに話したことを、詳しくモンモに聞かせ、さらにこう付け足した。

「だからこれは、とんでもない謀略だよ……と信じたいけど、まだわからないの」

「あの……クリルさん。それを言えば、リッカさんが犯人かもしれないって可能性も捨てきれない……ってことになると思います」

 メイが異論をぶつけた。

「あなたの友達でしょ? どうして信じてあげないのよ」

 モンモもそれに合わせるが、クリルの顔色はふさいだままだった。

「この世にあり得ないことはないのよ、メイ、モンモ。エノハの理想の世界なんてものは、幻想に過ぎないからね。

 人間はけっきょく、ストレスのない生活でもそこにストレスを生み出そうとするし、争いがなくても争いの種を産もうとする生き物なの。それは過去、なんの不満も不足もないはずの王宮の生活でも、謀略や暗殺が吹き荒れていたことからも、明らかだわ。

 人間はやることがないと、どうでもいいことで怒りだすの」

「……理屈でしかモノを考えられないのね。だからなんなのクリル。あの子に会いに行きたいの? 会いたくないの?」

「会いたいに決まってるでしょ。アメジスト通りの拘置所こうちしょに行けば、会えるのかな。付いてきてくれるよね、二人とも。正直、どんな顔をすればいいか、わからなくて」

「も、もちろんです。リッカさんは私にとっても友達です」

 メイがクリルを奮起ふんきさせるように、強い口調で同意した。

「イヤよ、あなたと一緒なんて。でも、私もリッカには会いたいから、たまたまあなたと横を歩くくらいなら……まあしょうがないかな」

「ありがと、モンモ」

「どういたしまして」

 モンモは少し顔をしかめながら、実のない社交辞令で返した。

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