89.マリオネット

「守り手ノト!」

「救世主ノト!!」

「神の守護者ノト!!」

 ――ヨイテッツ死去より3日後。

 今ごろ、ノトは人々にそう呼ばれ、称えられ、羨まれている……はずだった。

 だが、今のノトは、壇上だんじょうから3人の男女を見下ろし、数日前までの雄弁を忘れ、ただ言葉を詰まらせて、立ち尽くしていただけだった。

 30年前、エノハの令で建てられたルビー・ガーネット集会所。

 陰で言えることは、当人の前でも言えることであるべし、というエノハの態度を示すように、この集会所はルビー通りの遠くからでもわかる、高床式の、壁のないわらぶき屋根のこしらえだった。

 数日前まで、ノト大先生の話を聞くために、ここには100人規模の人間が出入りしていた。

 謎の人物(ノト自身、あの日の一度しか会っていないが、ノトはムービープレイヤーを渡しながら接触してきた、あの男のことを、フードの予言者と名付けていた)からもらい受けたムービープレイヤーは、数日のうちにエノハの命令を受けた自警団によって、禁制品として没収・処分を受けた。

 しかし、仮にそれが今もここにあっても、もはや聴衆の耳目を集めることはないだろう。

 ファノンの異形の力は、ノトがきつけたように、人々に雷のように落ちることはなかったばかりか、人々を守るために用いられたのである。

 もはや少数派の者にしか、あのムービーの効果は期待できない。

 その上、実際には、熱烈なファノン排斥はいせき派と化していたはずのタクマスが、集会の解散を宣言してからというもの、ファノン追放派の人数は日を数えるごとに減っていたのである。

「ノト」

 赤いパイロープの四脚から、ひとりの男が立ち上がった。

「なんだ」

 一抹ながら、自分へ賛辞あるいは激励げきれいが送られると期待しながら、ノトは相手に言葉をうながした。

「もう……俺はここには来ないことにする」

 男が告げたのは、手短な退会申告だった。

「お、お、俺も」

「私も……」

 最後に残った2人も、口々に同じことをならべた。

「じゃあな、ノト」

 後ろめたさから、目を合わせずに3人は集会所を出て、カコカコとウッドデッキを鳴らしながら、高床階段を降りていった。

「…………」

 ひとり残ったノトは、杉の演台に両手をつけてうなだれた。

「……愚民どもめ。いつも奴らは物事が見えんのだな」

 ノトはうつむいた姿勢のまま、歯の隙間から声をひりだした。

 屈辱と孤独感で、なぜだか激しい尿意をもよおす。

「愚民どもめ……! 愚民どもめ…………! ファ……ファノンめ……あの、ば、ば、化け物め!」

 ノトは演台の上に拳を振り上げ、そのまま、力任せに振り下ろした。

 もとより、それほど硬くはない杉の演台は、かんたんに拳によってひしゃげていった。

「おのれ……! おのれ……! ちくしょう……!」

 ノトの挫折ざせつ

 ファノン破壊者説は、もはや現実になる目処めどついえてしまった。

 300人規模におよぶ反対派集会の立役者となるはずだったノトだったが、ヨイテッツが『余計なこと』をしたために、すべては逆風となったのである。

 これで、フォーハードの目論見は瓦解がかいする……かにみえた。

 だが、それは違った。

 フォーハードは、2億5000万台におよぶ販売数を打ち出した家事ロボット会社のトップだった男。

 そのフォーハードをトップたらしめた要因は、怪しげな超能力でも、鋭敏な知性でも、善悪をかえりみない行動力でもなく……その人事にある。

 フォーハードは、人を適所にもちいることと、人がどういうふうに動くかを、おそろしくわきまえた男だった。

 フォーハードは心配していなかった。

 ――ファノンを利用するのは難しい。だが、ファノンの心を砕くのは容易い。

 それを行うのに、そもそも300人集会などという徒党は必要ないのである。

「……!?」

 背を丸め、敗北感にやりこめられていたノトは、ふと、頭上に気配をさとった。

 見たことのあるマントの色が、ノトの視界の隅に現れたのである。

「よ、予言者どの……?」

 ノトは天井のはりを見つめ、助けを求めるように男の姿を探したが、そこには、誰もいなかった。

 あきらめて、ノトが曲がった演台に目を落とした時。

 そこには一枚の白い紙切れが落ちていた。

 ノトはにわかに現れた紙くずを不審におもい、つまみあげた。

 そこには何やら、短く言葉が記されているようだった。

「……? ふ、ふははははっ」

 そこに書かれている文章を見たとたん、ノトはふいに、高飛車たかびしゃに笑い始めた。

「そう、そうだ。俺にはまだ手があるではないか!」

 ノトは打ち水でも浴びたかのように、ぴしりと立ち上がり、その紙くずをまるで聖書か何かのように、天井にかかげた。

「俺が――俺こそが! セントデルタの救世主なのだ!」

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