90.nomos kronos

 同じ日の夜。

 中央広場、ジルコンの穴。

 秋の雨は人肌から熱を取る。

 傘をさしているとはいえ、ファノンの足元は、雨の跳ね返りでビショビショに濡れて重く、かつ冷たくなっていた。

 ファノンは一人、家から抜け出して、ここに立っていた。

 ヨイテッツの葬儀には行かなかった。

 どんな顔で、参列のために来場する人間と会えばいいのか、わからなかったからだ。

 もしそこに出席したとしても、表向き、ファノンを責める人間はいなかっただろう。

 だが、その時のファノンは自分で自分が許せなかったのである。

 それで免罪符でもおがむ気持ちで、ヨイテッツの遺体が流れていった『ジルコンの闇通路』の前に立つが……いっこうに、ファノンの気が晴れることはなかった。

 そうして動かずに何時間か経ったころ、ファノンの背に、気配が生まれた。

 エノハだった。

「ファノン……やはりここにいたのだな」

 エノハの呼びかけにも、ファノンは返事をしないまま、ヨイテッツの墓標ぼひょうであるジルコンの蓋を見つめたままだった。

「人々からしらせがあった。お前が昨日も、ここへ来てしばらく黙祷していた、と」

 もとより風邪など気にする必要のないエノハは、衣服が濡れるのにも構わず、傘を使わず、濡れるにまかせながら、淡々とファノンの背に語りかけた。

「もう、お前を追い出そうとする者はない。お前の……ヨイテッツの勝利だ。お前はここに居ていいのだ。お前は……」

「エノハ様」

 ファノンは背を向けたまま、エノハの言葉に割り込むようにして、その次の句をとどめた。

「10年前……俺が急性白血病にかかったとき、なんで助けたんだ」

「以前にも話しただろう。私はこれまで、たくさんの子供の死を見てきた。そのつど、心が張り裂けそうな気持ちになった。

 わずかな時間さえ生きられない子供を、私だけが救えるのに……私が古代から私有し続けている技術を使えば救えるのに……私はこの手を振るわず、このセントデルタの法を守るために、見捨ててきたのだ」

 ファノンが白血病の手当てを受ける前のエノハは、人の生死を天命にまかせる、という主義だった。

 子供が病気で死にかけようが、妙齢の男女が事故で死にかけようが……友人同士の喧嘩の果てにどちらかが死にかけようが、エノハは手を出しも貸しもしてこなかったのである。

 それが、ファノンの時には、すぐさま対応をみせた。

 当時、セントデルタの人々は、エノハが変心したふうにしか、見えなかったことだろう。

「子供が……人々が闇に帰るたびに、私の心はきしんだ。

 わかるか? 500年の間、生きられる命を、法のためだと言って、見捨ててきたのだ。救えるのに救わない。それは私が殺したのと、何も変わらない。もう耐えきれなかった……そんな時に、お前の白血病の話が持ち上がったのだ」

「……」

 ファノンは5歳のとき、急性白血病の治療のため、親族からも友人からも離され、10歳になるまでアレキサンドライトの塔で過ごした。

 そこには様々な医療機器があるが、そのうちの一つに、患者の健康な血液をいくらでも培養する機械もあったのである。

 それがなければ、クリルと同じ家で過ごすことも、メイに皮肉を言われながら助けられることも……ヨイテッツの骸に立ち会うことも、なかっただろう。

「なあ、エノハ様……その話が嘘じゃないってのは、俺もわかる。でも、こうして久しぶりに二人きりになったんだ。もう一つ、理由があるんだろ。俺……ゴドラハンと会ったんだぜ」

「そう……だったな」

「ゴドラハンは……俺の顔が、死んだゴドラハンの息子と、顔が似ている、と言ってた。

 そして、やはりそいつも超弦の力を使っていたことも。

 俺はゴドラハンの息子と……あんたが争っていた奴の息子と顔が似ていたんだろう? それに俺は5歳になる前から、すでに超弦の力を使っていた。顔だけじゃなく、できることまで似通っていたんだ。

 俺が白血病で可哀想だったから生かすってのは、後付けの話だろ? その頃はまだフォーハードに、俺の存在は気づかれていなかった。気づかれれば、必ずあいつは俺を利用しようとする。

 俺が生きているのは、むしろセントデルタには不都合だったんだ。

 世界を守るためなら、むしろ、俺を見殺しにしておいて、フォーハードと素知らぬ顔で会えばいいはずだ。そして、次に白血病の子供が現れるときまで、その慈悲は蓄えられたはずだ――それなのに俺は、その息子と顔が似ていたから、生かされたんだ」

「……奴はそこまで言ったか……」

「いや、あいつはヒントをくれただけだよ。エノハ様に俺が生かされた理由については、俺が考えた」

「成長したのだな、ファノン」

「エノハ様」

 ファノンはそこでやっと振り返り、ジルコンの闇通路に背を向けて、エノハと向き合った。

 その目つきは、ヨイテッツの死を乗り越えられてはいなかったが――折れた力なき物でもなかった。

 この運命をはねつけようと、もがき、身をよじり続ける……そんな力強さが灯っていたのである。

「俺の顔がゴドラハンの息子とうりふたつ。それがなぜ、あんたを戸惑わせたんだ」

「お前が……いや、お前の前世が、私を支えたからだ」

「俺の……前世?」

 セントデルタに生きるファノンにとって、それは聞き慣れた言葉だった。

 闇宗教では、死んだ生物は素粒子に分解され、石や花、虫や空気などに変わったりしながら、何度もやり直すうちに、素粒子がまったく以前と同じ位置や部位をかたどって、転生することもある……かもしれないと説く。

 だがそれは、数兆の数けい乗の未来に、もしかしたら起こるかもしれない奇跡の話で、たかだか500年という短いサイクルの話ではないはずだ。

「かつてのお前がいなければ、私はたった一人、あの戦争に生き残ったところで、生きる希望を持ち続けることなど、できるはずがなかった。お前がふたたび、現れることを希望に抱かなければ、私も、このセントデルタもなかったのだ」

「俺が……?」

 そんな馬鹿なことを、と言いかけて、ファノンの脳裏のうりに、ふたたびゴドラハンの声が蘇った。

 ――500年後、ふたたび超弦の子は現れる。

 たしかにゴドラハンはそう告げたのだ。

「お前を見殺しにするなど、できるはずがなかったのだ。法を捻じ曲げても、セントデルタが終わっても、人々が一人残らず敵に回ろうとも。私は、お前の復活をこそ、願っていた」

「……」

 エノハの目に、嘘は感じられなかった。

 だからこそファノンは、畏怖いふを覚えたのである。

 クリルからかねがね、セントデルタ転覆の話を聞かされても、聞き流していたファノンだったが、この時初めて、ファノンはエノハの統治に、不気味なものを感じたのである。

 ――つまり……俺がもしも死んだりしたら、このセントデルタをエノハ様はどうするつもりだ。

 ――俺が5年後、二十歳のアポトーシスで闇に帰ったあとは、エノハ様はここをどうするつもりなんだ。

 ――俺のいなくなったあとのセントデルタのことを、エノハ様が考えているとは思えない。

 ――俺が闇に帰ると、ここは退廃する。

 ――クリルはもしかしたら、エノハ様のこういう部分にも気づいてたから、エノハ様の統治に反対してたのかもしれない。

 ――だったら、俺がやるべきことってのは……フォーハードを倒すこと、だけじゃない。

「だけど、それでも」

 それでもファノンは、エノハを倒して未来をつなぐ、という選択を取ることは、できなかった。

 それに、いくらエノハのえがく末路に気づいたからといって、この場で超弦の力をひらめかせ、エノハを始末して世界を救う……という異様な神経を、ファノンが持ちあわせているはずがなかった。

「俺はみんなが……あんたも笑ってられる未来を、作りたいんだ」

「理想論だよ、それは」

 エノハがふっと笑った。

「できるものなら、やってみるがいい。私はそんな世界は、誰にも作れないと知っているがな」

 エノハがそう宣戦布告ばりに語り終わったところで、まるで両者のはざまに幕を降ろすように、雨脚あまあしが強くなった。

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