同じ日の夜。
中央広場、ジルコンの穴。
秋の雨は人肌から熱を取る。
傘をさしているとはいえ、ファノンの足元は、雨の跳ね返りでビショビショに濡れて重く、かつ冷たくなっていた。
ファノンは一人、家から抜け出して、ここに立っていた。
ヨイテッツの葬儀には行かなかった。
どんな顔で、参列のために来場する人間と会えばいいのか、わからなかったからだ。
もしそこに出席したとしても、表向き、ファノンを責める人間はいなかっただろう。
だが、その時のファノンは自分で自分が許せなかったのである。
それで免罪符でもおがむ気持ちで、ヨイテッツの遺体が流れていった『ジルコンの闇通路』の前に立つが……いっこうに、ファノンの気が晴れることはなかった。
そうして動かずに何時間か経ったころ、ファノンの背に、気配が生まれた。
エノハだった。
「ファノン……やはりここにいたのだな」
エノハの呼びかけにも、ファノンは返事をしないまま、ヨイテッツの
「人々から
もとより風邪など気にする必要のないエノハは、衣服が濡れるのにも構わず、傘を使わず、濡れるにまかせながら、淡々とファノンの背に語りかけた。
「もう、お前を追い出そうとする者はない。お前の……ヨイテッツの勝利だ。お前はここに居ていいのだ。お前は……」
「エノハ様」
ファノンは背を向けたまま、エノハの言葉に割り込むようにして、その次の句をとどめた。
「10年前……俺が急性白血病にかかったとき、なんで助けたんだ」
「以前にも話しただろう。私はこれまで、たくさんの子供の死を見てきた。そのつど、心が張り裂けそうな気持ちになった。
わずかな時間さえ生きられない子供を、私だけが救えるのに……私が古代から私有し続けている技術を使えば救えるのに……私はこの手を振るわず、このセントデルタの法を守るために、見捨ててきたのだ」
ファノンが白血病の手当てを受ける前のエノハは、人の生死を天命にまかせる、という主義だった。
子供が病気で死にかけようが、妙齢の男女が事故で死にかけようが……友人同士の喧嘩の果てにどちらかが死にかけようが、エノハは手を出しも貸しもしてこなかったのである。
それが、ファノンの時には、すぐさま対応をみせた。
当時、セントデルタの人々は、エノハが変心したふうにしか、見えなかったことだろう。
「子供が……人々が闇に帰るたびに、私の心はきしんだ。
わかるか? 500年の間、生きられる命を、法のためだと言って、見捨ててきたのだ。救えるのに救わない。それは私が殺したのと、何も変わらない。もう耐えきれなかった……そんな時に、お前の白血病の話が持ち上がったのだ」
「……」
ファノンは5歳のとき、急性白血病の治療のため、親族からも友人からも離され、10歳になるまでアレキサンドライトの塔で過ごした。
そこには様々な医療機器があるが、そのうちの一つに、患者の健康な血液をいくらでも培養する機械もあったのである。
それがなければ、クリルと同じ家で過ごすことも、メイに皮肉を言われながら助けられることも……ヨイテッツの骸に立ち会うことも、なかっただろう。
「なあ、エノハ様……その話が嘘じゃないってのは、俺もわかる。でも、こうして久しぶりに二人きりになったんだ。もう一つ、理由があるんだろ。俺……ゴドラハンと会ったんだぜ」
「そう……だったな」
「ゴドラハンは……俺の顔が、死んだゴドラハンの息子と、顔が似ている、と言ってた。
そして、やはりそいつも超弦の力を使っていたことも。
俺はゴドラハンの息子と……あんたが争っていた奴の息子と顔が似ていたんだろう? それに俺は5歳になる前から、すでに超弦の力を使っていた。顔だけじゃなく、できることまで似通っていたんだ。
俺が白血病で可哀想だったから生かすってのは、後付けの話だろ? その頃はまだフォーハードに、俺の存在は気づかれていなかった。気づかれれば、必ずあいつは俺を利用しようとする。
俺が生きているのは、むしろセントデルタには不都合だったんだ。
世界を守るためなら、むしろ、俺を見殺しにしておいて、フォーハードと素知らぬ顔で会えばいいはずだ。そして、次に白血病の子供が現れるときまで、その慈悲は蓄えられたはずだ――それなのに俺は、その息子と顔が似ていたから、生かされたんだ」
「……奴はそこまで言ったか……」
「いや、あいつはヒントをくれただけだよ。エノハ様に俺が生かされた理由については、俺が考えた」
「成長したのだな、ファノン」
「エノハ様」
ファノンはそこでやっと振り返り、ジルコンの闇通路に背を向けて、エノハと向き合った。
その目つきは、ヨイテッツの死を乗り越えられてはいなかったが――折れた力なき物でもなかった。
この運命をはねつけようと、もがき、身をよじり続ける……そんな力強さが灯っていたのである。
「俺の顔がゴドラハンの息子とうりふたつ。それがなぜ、あんたを戸惑わせたんだ」
「お前が……いや、お前の前世が、私を支えたからだ」
「俺の……前世?」
セントデルタに生きるファノンにとって、それは聞き慣れた言葉だった。
闇宗教では、死んだ生物は素粒子に分解され、石や花、虫や空気などに変わったりしながら、何度もやり直すうちに、素粒子がまったく以前と同じ位置や部位をかたどって、転生することもある……かもしれないと説く。
だがそれは、数兆の数
「かつてのお前がいなければ、私はたった一人、あの戦争に生き残ったところで、生きる希望を持ち続けることなど、できるはずがなかった。お前がふたたび、現れることを希望に抱かなければ、私も、このセントデルタもなかったのだ」
「俺が……?」
そんな馬鹿なことを、と言いかけて、ファノンの
――500年後、ふたたび超弦の子は現れる。
たしかにゴドラハンはそう告げたのだ。
「お前を見殺しにするなど、できるはずがなかったのだ。法を捻じ曲げても、セントデルタが終わっても、人々が一人残らず敵に回ろうとも。私は、お前の復活をこそ、願っていた」
「……」
エノハの目に、嘘は感じられなかった。
だからこそファノンは、
クリルからかねがね、セントデルタ転覆の話を聞かされても、聞き流していたファノンだったが、この時初めて、ファノンはエノハの統治に、不気味なものを感じたのである。
――つまり……俺がもしも死んだりしたら、このセントデルタをエノハ様はどうするつもりだ。
――俺が5年後、二十歳のアポトーシスで闇に帰ったあとは、エノハ様はここをどうするつもりなんだ。
――俺のいなくなったあとのセントデルタのことを、エノハ様が考えているとは思えない。
――俺が闇に帰ると、ここは退廃する。
――クリルはもしかしたら、エノハ様のこういう部分にも気づいてたから、エノハ様の統治に反対してたのかもしれない。
――だったら、俺がやるべきことってのは……フォーハードを倒すこと、だけじゃない。
「だけど、それでも」
それでもファノンは、エノハを倒して未来をつなぐ、という選択を取ることは、できなかった。
それに、いくらエノハのえがく末路に気づいたからといって、この場で超弦の力をひらめかせ、エノハを始末して世界を救う……という異様な神経を、ファノンが持ちあわせているはずがなかった。
「俺はみんなが……あんたも笑ってられる未来を、作りたいんだ」
「理想論だよ、それは」
エノハがふっと笑った。
「できるものなら、やってみるがいい。私はそんな世界は、誰にも作れないと知っているがな」
エノハがそう宣戦布告ばりに語り終わったところで、まるで両者のはざまに幕を降ろすように、