92.脅迫

 2日後の昼間。

 その日もまた、霧雨きりさめの降る、曇天どんてんの日だった。

「はーい……リッカさん?」

 メイが玄関の扉を開けると、そこには自警団長のリッカが、傘もささずに立っていた。

 その表情は固く神妙で、何か良くない感情を腹に蓄えていることが、ひと目にわかる顔色だった。

「ファノンはいる?」

 リッカはあいさつも何もなしに、とつぜん用件だけをメイに告げた。

 メイは歯科医の仕事をしてきた経験上から、こういう顔色で、こういう態度で言葉を切り出される場合……次にどうなるのか、すぐに想像がついた。

 この表情の人間は、『ほぼ間違いなく』メイにクレームをぶつけてきたのである。

 ただし今回、リッカが言いそうなことで思いつくのは、ただ一つ。

 すなわち、ファノンのことである。

 リッカが尋ねるであろう質問で、メイはこれからファノンの身に良くないことが起こることを、敏感に感じ取っていた。

「ファノン……ですか?」

 けげんに眉をひそめながらも、メイはリッカのいでたちを観察する。

 リッカは腰にエメラルドのナイフをき、さらに袈裟けさ状に巻いたベルトには、4本もの一体構造型のアメジスト投げナイフをさしていた。

 さらに、扉の陰に、エメラルドの槍も忍ぶように置かれていたのである。

「ファノンに何か用なんですか? リッカさん」

「……ここにいるの? いないなら、どこに行ったの? いつ帰るの? いま、何をしているの?」

 リッカはくどいほどの質問の波を浴びせてきた。

 その問いを発したときのリッカの表情に、メイはさらに鬼気迫ききせまるものを感じた。

 ――これ……ファノンと会わせちゃ、いけない。

「どうしたんですか? ファノンが何かしたんですか?」

「それは言えない。ともかく、ファノンを出して。ここにいるの?」

「さあ……わかりません。ここ最近、あいつ、家に帰ってないんです」

「そう……」

 リッカが目を伏せたかと思ったが……それは一瞬だけのことだった。

 リッカが腰の牛皮シースにさしていたエメラルドのナイフを、まるでトランプのカードでも引っ張り出すように軽々と、モーションもなく抜き出してから、ろくに反射行動も起こせないメイの首に当てて、壁に叩きつけてきたのである。

「あうっ!」

 首をねじあげられるメイは、小さくうめくしかできなかった。

「ちょっ……リッカさ……苦し……!」

「メイ、正直に答えてちょうだい。ファノンは……どこにいるの」

 リッカがメイの首に当てているナイフを、さらに強く押しつけた。

 刃ではなく、平の部分で押さえつけているから切れたりはしないが、そのぶん首への圧迫感は増す。

 これではしゃべるどころか、呼吸もできないことは、リッカにもわかっている。

 そこでリッカは素早くメイの足を払い、床に倒すと、あらかじめ腰にさげていた荒縄を、うつ伏せに倒れるメイの両手に用いて、そのまま縛り上げてしまった。

「や……っ! 何するの、やめて!」

 メイは残った両脚をバタつかせたが、それもリッカにつかまれ、もう一本残った荒縄で戒められてしまった。

 リッカはそのまま、うつ伏せのメイにまたがり、左手でメイの髪の毛をつかんでねじりあげ、右手に持つナイフでメイの首に押し当てた。

「な……何を考えてるんですか、リッカさん! こんな横暴、エノハ様が許しませんよ」

「エノハ様だって何も言えんよ。これは自警団長の……独断だもの」

 リッカは冷たく言い放つ。

「もう一度、尋ねるわ。ファノンは、どこに、いるの?」

 いんを踏むように、リッカは句を分けて強調した。

「いません……ここには。あなたのところには、二度とだって、あいつは現れたり、させません。

 ファノンを殺す気なんでしょう? 何でですか。

 あいつが、あなたに何をしたんですか。あいつはあなたを、セントデルタのみんなを守った。あなたこそ、あいつを守ってあげるべきでしょ。何なのこれは」

「言う気はないのね、メイ」

「私は……これでもセントデルタの町長です。自警団長が何と言おうと、私は人々を守る義務がある」

 メイの四肢ししは、恐怖に震えていた。

 死にたくない、傷つけられたくない、苦しいのもイヤだ。

 それでも反論できたのは……メイの意地だけではない。

 その意地以外の『何か』とは、何なのかを、メイはわかっている。

 ファノンの危機にだけ反応する、その心の動き。

 だがメイは終生、それに名前を与えることはなかった。

「リッカさん……いえ、リッカ、あなたなんかに、ファノンは殺させない」

「あたしはファノンを殺す気はない。ただ、ここからいなくなって欲しいだけ」

「それって追放でしょう? 人が人から離されて、セントデルタ外の放射線だらけの大地に放り出されて、生きていけるわけがないでしょう。あなたはこれから、人殺しをするんですよ」

「……メイ、黙りなさい」

 リッカの声が、半音下がった。

「あなたのやることは、フォーハードのやることと変わらない。人の美点以外は認めないなんて……フタをするなんて……それ以外は人間の性ではないなんて……フォーハードと何も変わらない」

「黙りなさい!」

 リッカはメイの首に当てているナイフを、ふたたび平から刀身に切り替えた。

 メイの首から一筋の血が流れる。

「私、知ってるんですよ……あなたがクリルさんから、次代の女神になれと言われてること。

 あなたの優しさがあれば、セントデルタはより良いものになる。クリルさんはそれを信じてたのに」

「あんな力を持つ子が……いや、フォーハードとファノンが同時に現れなければ、あたしだってこんなことはしなかった。

 あの力はぶつかりあわせちゃいけない。

 あたしだけが、それをさせない権力がある。それを行使する義務がある。

 協力してくれないのなら……あんただって!」

 リッカはメイの首にかけているナイフを、刀身をつけたまま、強く押し当てた。

 すでに切り裂かれた傷口に、みるみる、エメラルドのナイフは埋まっていき、やがてそれは、メイの頚動脈けいどうみゃくに達しようというところで――

「リッカ」

 リッカの頭上から、男の声がかかった。

 ファノンのものだった。

「俺はここだ」

 ファノンは二階の手すりを握り、リッカを睨み下ろしていた。
「ファ……ファノン……! このバカ、出てくるなよ! 私さえ耐えてれば、どうにでもなったのに……なぜ出てきた!」

「もういいんだ、メイ。これ以上、誰かが俺のために傷つくのは耐えられない」

「ファノン……この……バカ野郎」

「ファノン……やっぱりここにいたんだね。逃げればよかったのに」

 リッカがメイの首からナイフを離し、立ち上がると、階段に立つファノンをにらんだ。

「もういいだろう。あんたに付いていくよ。この場所じゃダメなんだろ? どこに行けばいい」

「ファノン……ダメだ! ファノン!!」

 メイは声の限りさけんだ。

 ファノンやリッカを圧するためというよりは、近所に聞こえるように。

 情けないが……もはやメイにできることは、少しでも第三者に、リッカの凶行のきざしを匂わせることだけだったのである。

「大丈夫さ……リッカは人殺しなんかしない。安心してくれ」

 ファノンはまるで病み上がりのように、小さくつぶやくと、自分はさっさと玄関のほうに歩いて行ってしまった。

「……」

 リッカもまた、黙ってファノンに付き添った。

 そして、メイだけが、縛られたまま、冷たい廊下に打ち捨てられた。

 ――バカ野郎……!

「リッカさんが殺さない、だと……? そんなわけ、あるもんかよ……ファノン。リッカさんは、セントデルタへの愛ゆえに……みんなを愛するゆえに……その条件さえあれば、誰だって殺す人だろうが……だから自警団長に選ばれたんだよ。わからないわけ、ないだろ、お前がそれを……!」

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