ひびのおしえ
おさだめ
一、うそをつくべからず。
一、ものをひらうべからず。
一、
一、ごうじょうをはるべからず。
一、兄弟げんかかたくむよう。
一、人のうわさかたく無用。
一、ひとのものをうらやむべからず。
おさだめ
一、ウソをついてはいけません。
一、おちているものをひろってはいけません。
一、父母にきかずに、ものをもらってはいけません。
一、
一、兄弟ゲンカはぜったいにしてはなりません。
一、ひとのうわさなどはしてはいけません。
一、ひとの持ち物をうらやんではいけません。
十月十四日
ほんをよんで、はじめのほうをわするるは、そこなきおけに、みずをくみいるるがごとし。くむばかりのほねおりにて、すこしもみずのたまることなし。されば一さんも捨さんも、よんだところのおさらえをせずして、はじめのほうをわするるときは、よむばかりのほねおりにて、はらのそこにがくもんの、たまることはなかるべし。
十月十四日
本を読んでいて、はじめのところをわすれるというのは、底のぬけた桶に水を流すのとおなじようなものです。水をくんでくるばかりの骨折りというもので、これでは水が桶にたまるはずはありません。
一さんも捨さんも、読んだところのおさらいをせず、はじめのところをわすれるようでは、読むばかりの骨折りで、ほんとうにものごとをわかることはできないでしょう。
十月十五日
人たる者は、むしをころし、けものをくるしめなど、すべてむごきことを、なすべからず。かかるじひなきふるまいをするときは、ついにはわがどうるいの人をも、むごくするようになるべし。つつしまざるべからず。
十月十五日
人間というのは、虫をころしたり、獣をいじめたりなど、どのようなことにしても、ひどいことをしてはなりません。このようなイジワルばかりをすると、ついには自分とおなじ人間にさえ、おなじようにひどいことをしてしまうものです。つつしまなくてはなりません。
十月十六日
十月十六日
子どもも、いつまでも子どものままではいけません。いずれ成長して、一人前の男とならねばいけないのです。
それならば、子どものころから、なるべくひとの世話にならないようにしなくてはなりません。自分でうがいをして、自分で顔を洗い、自分だけで着物を着て、
これを西洋の言葉では「インディペンデント」といいます。
インディペンデントとは
十月十七日
人の心の
もめんの
十月十七日
ひとの心がみなちがうのは、ひとの顔のかたちのようにさまざまです。ひとの心には、おなじものはありません。
丸い顔もあれば、長い顔もあります。
心のかたちもまた、おのおのが生まれついてもっているもので、一様ではありません。
気のみじかいひともいれば、気長なひともいます。ものしずかなひともいれば、うるさいひともいます。
ひとのやっていることをみて、自分のかんがえにはあわないからといって、すぐさま短気をおこして怒ってはいけません。なるべくゆるして、がまんして、よくつきあってみるべきです。
*唐桟……西インド舶来の綿生地で、冬着につかわれることがおおかった。
十月二一日
人には
十月二一日
人間にはかならず勇気の心がなくてはなりません。
勇気とはなにかというと、強い心のことをさします。ものごとをおそれない、自信のことをいいます。
どんなことであっても、自分のきめたことは、いつまでもこれにこだわって、苦しむことをおそれずに、なしとげるのです。
たとえば、本をいちど読んでおぼえられないからといって、これを捨ててはいけません。いちどでダメなら二度目をためして、それでもダメなら10度、20度と、おぼえるまではずっと勇気をふるって、そうして強くなるのです。
それをおえれば、またべつのことで努力をするのです。
十月二七日
十月二七日
世のなかで、父母とのつきあいほど仲のいいものはありません。父母ほど親切なものもいません。
父母が長生きをして、健康であることは子どものねがうところでしょうが、きょうは生きていても、あしたには死ぬかもしれません。
父母の生死はすべて神さま(God)の心にあります。神さまは父母をつくりだし、神さまは父母を生かしていますが、父母を死なせることもあるのです。
天地にあるものはなにもかも、神さまのつくっていないものはありません。
子どものときから神さまのありがたみをおもって、神さまの心にしたがうべきです。
○
まいにちさんどのおまんまをたべ、よるはいね、あさになればおき、まいにちまいにち、おなじことにて、ひをおくるときは、ひとのいのちは、わずか五十ねん、いつのまにかはとしをとり、きのうにかわるこんにちは、しらがあたまのおじいさん、やがておてらのつちとなるべし。
そもそも、ものをたべてねておきることは、うまにてもぶたにても、できることなり。
にんげんのみぶんとして、うまやぶたなどと、おなじことにて、あいすむべきや。あさましきしだいなり。さればいまひととなりて、このよにうまれたれば、とりけものにできぬ、むずかしきことをなして、ちくるいとにんげんとの、くべつをつけざるべからず。
そのくべつとは、ひとはどうりをわきまえて、みだりにめのまえのよくにまよわず、もんじをかき、もんじをよみ、ひろくせかいじゅうのありさまをしり、むかしのよといまのよと、かわりたるもようをがてんして、にんげんのつきあいをむつまじくし、ひとりのこころに、はずることなきように、することなり。
かくありてこそひとはばんぶつのれいともいうべきなり。
●
毎日三回、ごはんを食べて、夜は寝て、朝になればおきて、毎日毎日、おなじことをやって一日をおくる。
ひとの命はわずか50年。
いつのまにかは年をとって、きのうをいくつもすごして今日になり、そうしてついに、しらが頭のおじいさんになります。そして、さいごにはお寺の土となります。
ですが、ものを食べて、寝て、おきる、ということは、馬でも豚でもできることです。
人間として生まれたからには、馬や豚とおなじことをやって、すむでしょうか。それではあさましい、というものです。
それならば、いま人間として生まれたのならば、鳥や獣にできないような、むずかしいことをやらなくてはなりません。そうして動物と人間との区別をつけなくてはならないのです。
その区別のつけかたですが、こうなります。
人間はまず、獣とちがって道理をわかっていなくてはなりません。獣とはちがって、みだりに目の前の欲にくらんではいけません。獣にできない文字の読み書きもできなくてはいけません。広く、世界じゅうのことをしって、むかしの世界といまの世界のちがいもよくとらえていなくてはなりません。人間どうしのつきあいも仲よくたもって、自分の心に恥じることのないようにするのです。
こうあってはじめて、人間は万物の霊長と名のれます。
○
ももたろうが、おにがしまにゆきにしは、たからをとりにゆくといえり。
けしからぬことならずや。たからは、おにのだいじにして、しまいおきしものにて、たからのぬしはおになり。ぬしあるたからを、わけもなく、とりにゆくとは、ももたろうは、ぬすびとともいうべき、わるものなり。
もしまたそのおにが、いったいわろきものにて、よのなかのさまたげをなせしことあらば、ももたろうのゆうきにて、これをこらしむるは、はなはだよきことなれども、たからをとりてうちにかえり、おじいさんとおばあさんにあげたとは、ただよくのためのしごとにて、ひれつせんばんなり。
●
ももたろうが鬼が島にいったのは、宝をとりにいくためだから、といいます。
けしからないことではないですか。
宝は鬼がだいじにしまっていたものです。宝の持ち主は鬼です。持ち主のある宝を、理由もないのにとりにいくとは、ももたろうは、泥棒ともいうべき、わるものです。
もしもその鬼たちがほんとうに悪いやつらで、世のなかに
ですがその宝をうばって家に帰って、おじいさんとおばあさんにあげたとは、ただ欲のために鬼をやっつけたというもので、
○
てあしにけがをしても、かみにてゆわえ、またはこうやくなどをつけて、だいじにしておけば、じきになおり、すこしのけがなれば、きずにもならぬものなり。
さてひとたるものは、うそをつかぬはずなり、ぬすみせぬはずなり。いちどにてもうそをつき、ぬすみするときは、すなわちこれを、こころのけがともうすべし。
こころのけがは、てあしのけがよりも、おそろしきものにて、くすりやこうやくにては、なかなかなおりがたし。かるがゆえに、おまえたちは、てあしよりもこころをだいじにすべきなり。
●
手足にけがをしたときは、紙でむすべばだいじょうぶです。ぬりぐすりなどをつけて、だいじにしていても、じきになおります。ちょっと打っていたくなったぐらいなら、傷もみせないものです。
サテ、ひとというものは、ウソをつかないはずです。ぬすみはしないはずです。いちどでもウソをついて、ぬすみをはたらくときは、これのことを、心のけがといいます。
心のけがは、手足のけがよりもおそろしいものです。飲みぐすりでもぬりぐすりでも、なかなか治せません。
そういうわけなのだから、おまえたちは、手足よりも心をだいじにするべきです。
○
こどもは、もののかずを、しらざるべからず。たとえばひとには、てのゆびが五ほんづつ、あしのゆびが五ほんづつ、てとあしとのゆびを、あわせて二十ほんあり。
いまおまえたちの、きょうだい五にんの、てあしのゆびを、みなあわせて、いくほんあるやと、たずねられたらば、なんとこたうるや。
●
子どもは、ものの数をしっていなくてはなりません。
たとえば人間には、手には指が5本ついていて、足にも指が5本あります。手と足の指をあわせれば20本になります。
いまおまえたちの兄弟5人の、手足の指を、ぜんいんあわせれば、何本ありますか、とたずねたら、なんとこたえますか。
○
けさのひのでから、あすのあさのひのでまでのあいだを、十二にわけて、ひとときという。あさのひのでるころを、むつどきといい、むつ、いつ、よつ、ここのつとかぞえ、ここのつはひるのまんなかにて、ひるのおまんまをたべるときなり。
ここのつより、やつ、ななつ、むつとかぞえ、むつはひのくれるときにて、あさのむつよりくれのむつまで、ひるのあいだむときあり。よるのときをかぞうるも、ひるとおなじことにて、くれむつよりあけむつまで、むときにて、よあけにいたるなり。
●
きょうの日の出から、あしたの日の出までのあいだを、12にわけてひとときといいます。朝の日のでるころをむつどきといいます。むっつ、いつつ、よっつ、ここのつとかぞえ、ここのつは昼のまんなかにあたります。昼になるまでにはむっつの時があるわけです。夜の時間をかぞえるときも、昼とおなじことで、暮れのむっつから明けのむっつまで、むっつの時間があってから、夜明けになるわけです。
○
こどもは、にゅうわにして、ひとにかわいがられるように、ありたきものなり。せけんのひとにまじわるに、おとなしくするは、もちろんのこと、じぶんのうちにて、めしつかいのおとこおんなに、ものをいいつけるにも、けんべいづくに、ことばをもちゆべからず。
たとえばみずをのみたきときも、おんなどもへ、みずをもてこいというよりも、みずをもてきておくれといえば、そのおんなはこころよくして、はやくみずをもてくるものなり。なにごとによらず、すべてこのこころえにて、なるたけおおふうにかまえざるよう、こころをもちゆべし。
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子どもというのは、やわらかい態度をとって、ひとにかわいがられるようにありたいものです。
世間のひととかかわるのに、おとなしくしているのはもちろんですが、自分の家で、召使の男と女に、なにかしてもらいたいときにも、えらぶった言葉をつかってはいけません。
たとえば水がのみたいときには、女たちに「水をもってこい」と命令するよりも、「水をもってきてください」とたのめば、その女はこころよく引きうけて、すぐに水をもってきてくれるでしょう。
どのようなことにしても、すべてこの接しかたです。なるべく、えらぶらないように、心をくばりなさい。
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ひとのふりみて、わがふりなおせ。
おまえたちもきょうまでは、たべものにもきものにも、ふじゆうなかりしが、もしそのこころおとなしからずして、いやしきこんじょうをもち、ほんをもよまずして、むがくもんもうになることあらば、どんなりっぱなきものをきても、どんなおおきないえにいても、ひとにいやしめられ、ひとにゆびさされて、こじきにもおとるはじをかくべし。
ひびのおしえ初編終
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ひとのふりみて、わがふりなおせ。
おまえたちもきょうも、食べものにも着物にも、不自由はありません。それなのに、その心をおとなしくできずに、ひきょうな根性をもって、本も読まず、勉強オンチになることがあれば、どのようなりっぱな着物も、どんなおおきな家にいても、ひとにバカにされて、ひとにうしろから指をさされるようになって、浮浪者でも味わわない恥をかきます。
ひびのおしえ初編終