人はみずからを、
が、これはたんに
これをほんとうに名のっていいのは、天のさだめた法則にしたがって、ひとをたすけ、ひとをそだてるなどの徳をおさめ、人間が人間と名のれるだけの知識
古来より、中国人と日本人があまり気づかなかったことなのですが、人間の本能には自主をたもとうとする心、自由を得ようとする心がそなわっています。
ひと口に自由といってしまうと、わがままをしなさいといっているふうに、きこえるかもしれません。(注:1866年の福沢諭吉『西洋事情』がでる以前は、自由という言葉はわがままと同義だった。それを福沢がFreedomやLibertyからとった訳語として、当時からあった言葉の「自由」という単語をあてはめたのである。)
が、けっしてそういう意味ではありません。
自由とは、他人のさまたげをしないていどに、自分の心のままに、ものごとをおこなうことをいうのです。
父と子、主人と部下、夫婦、友人どうし、たがいに迷惑をかけないように、おのおのの心がのぞむものごとに、おもうままに打ちこむことをいうのです。かつ、自分の行動のために他人の行動をおさえつけず、おのおのの自立をたもてれば、そのひとの性格はただしい、といっていいでしょう。こういうとき、ものごとは悪いことにはすすみません。
もしも勘違いな人間がいて、自由の限度をのりこえ、他人を害してまで利益を得ようとするものがいれば、それは人間の敵なので、天が罰するべき相手です。ひとにゆるされない人物です。
この人物の立場が重かろうと軽かろうと、老いていようと若かろうと、
こういうわけで、人間の自由・独立はたいせつなものです。
このことをはきちがえれば、徳もおさまりはしません。知もひらきはしません。家もおさまりはせず、国もたたず、天下の独立ものぞむべくもなくなるでしょう。
まず個人が生活面でも精神面でも独立して、それから一家が独立を果たすのです。一家が独立して藩が独立できます。藩が独立して、そうして天下が独立するのです。
士農工商、だれもおたがいの自由独立をさまたげてはなりません。
ひとりの人間が守るべき観念。
これの基本は、まず夫婦から生まれます。夫婦があってのちに、親子が生まれ、兄弟姉妹があらわれます。
天が人間を生みだしたときには、男ひとり、女もひとりでした。数千万年の時間がたったいまも、男と女の比率はおなじです。
また、男にしても女にしても、ひとしくこの天地に生まれた個人です。男と女に軽重はありません。
古今の中国・日本の風習をみてみると、ひとりの男が複数の女性を妻・妾にしているのがわかります。女性をあつかうさまはまるで奴隷のよう、あるいは罪人のようで、むかしからこれを恥じるようすもありません。
あさましいことではないでしょうか。
一家の主人が自分の妻を軽蔑すれば、その子どもも父にならって母を軽んじ、教えを聞きいれません。
母の教えを重んじないということは、母はいてもいないのとおなじ、ということです。
これでは、みなしごとかわりません。
しかも父が仕事で家を空けてほとんど不在なら、だれがその子どもを教育するというのでしょう。あわれ、というのも言葉足らずです。
論語に「夫婦別あり」(福沢は誤って記述しているが、じっさいは孔子の論語の言葉ではなく、孟子の言葉)というのがあります。夫婦であっても遠慮すべきところがある、という意味です。
古代の賢人の言葉はいまの時代になっても、いろんなふうに理解する説があるのですが、別あり、という言葉の解釈として、わけへだてをもち、よそよそしく、距離をおけ、という意味でとってはなりません。
夫婦とは情がかよってこそ、です。
他人のようにわけへだてあっていては、とても家のなかは治まることはないでしょう。
それならば、別、という単語は区別と読むべきでしょう。この男女はこの夫婦、あの男女はあの夫婦、というふうに、ふたりをひとつとして区別せよ、という意味としてとらえるべきです。
それなのにいま、
本妻にも子がいて、妾にも子があれば、その子どもたちにとって父はひとりですが、母親だけがちがうことになります。
これでは夫婦に別あり、とはいえません。
男がふたりの妻をめとる権利があるのなら、女性にもふたりの夫を私物化する権利がなくてはなりません。
こころみに問います。
天下の男たちは、自分の妻がべつの男を愛して、一婦二夫となって家にいれば、主人はあまんじてその妻に尽くせるでしょうか。
春秋左氏伝という、春秋を解説した本があります。その本に「その室を易る」というのがあります。
妻をしばらく交換する、という意味です。
孔子さまは世の風習のおとろえていくのをみて、春秋を書いて
あるいはまた、論語の「夫婦別あり」も、ほかに解釈のしかたがあるのでしょうか。そのあたりは漢学者・儒学者たちの意見もあるでしょう。
さて、親に孝行をするのはとうぜんのことです。ただ一心に「これがわが親だ」とおもって、あますところなく孝行を尽くすべきです。
三年父母の懐をまぬかれず。
だからこそ、三年の喪に服すというのも、もっともなことで、それほど薄情なことではありません。
世間で、親が自分の子の親孝行をしないのをとがめ、子が父母の慈愛を罰するなどという話は、ないものです。
人間の父母たるものは、自分の子どもにたいして「これは自分の生んだ子だ、自分が手でこしらえ、金でつくったものである」などとおもうのは、おおきな間違いです。
子どもは天からのさずかりものです。無条件にたいせつにおもわなくてはなりません。
子どもが生まれれば父母は力をあわせて教育するのです。
十歳ぐらいまでは親のそばにおいて、両親の威光と慈愛によって、いい方向へみちびくのです。そうして学問の初歩までできるようになれば、学校にいれて教師のおしえをうけさせ、一人前の人間に成長してもらうのです。
これこそが父母のつとめというものです。天への奉公です。
子どもが二十一、二歳ほどにもなれば、もう成人としてあつかい、自我も完成したとみて、父母はこの子をほうってかえりみず、自立の生活をいとなませるのです。そうして、子どもに自分のおもうところへいき、おもうことをさせていいでしょう。
ただし、親子の道というものは、生涯だけでなく死後もかわっていいものではありません。子は孝行を尽くし、親は慈愛をうしなってはいけません。
さきほどもいった、ほうってかえりみない、というのは、父子の間柄であっても、おたがいの自立・自由をさまたげてはなりません、という意味です。
西洋書のなかに「子どもも生まれて成人にまでなれば、父母というものは子どもに忠告はしても命令はすべきでない」とあります。永遠不変の至言、というものでしょう。
さて、また、子どもを教育するのに、学問・ならいごとなどをおしえるのは、もちろんのことです。が、けっきょくのところ、「ならうより慣れろ」というのがもっとも効果的な教育でしょう。
となると、父母の言行はただしくなくてはなりません。
口で正論をとなえてみせても、身のおこないが卑劣ならば、子どもは父母の言葉をおしえとはせず、父母の行動をみならいます。
父母の言行がともにただしくなければ、いうまでもありません。こんなありさまで、いかにして子どもの人間らしさをのぞめるのでしょう。みなしごよりも、なお不幸というべきです。
あるいは父母がともに正直な性格で、子どもを愛することをしっていても、ものごとの道理をおしえず、ひとすじに自分の物欲だけを追うようにさせるものもいます。
これは罪のないようにみえますが、じっさいは子どもを愛することはしっていても、子どもを愛する方法をしらない、というものです。けっきょく、子どもを無知・無人徳の不幸におとしめてしまいます。これは天理にも人道にもそむく大罪です。
人間の父母として、自分の子どもが病気になっているのを心配しないものはありません。
が、心の病気の深刻さは、体の不具合よりも深いはずなのに、体の心配をして心の病気を心配しない親がいるのは、どうしてでしょうか。
これを母の仁というのでしょうか。畜類の愛と名づけてもいいほどです。
ひとの心がおなじでないのは、人間ひとりひとりの顔がちがうように、さまざまな種類があるからです。
世がひらけてくるにしたがって、悪人もはびこってきました。これを一般のひとだけでふせぎ、安心をたもち、財産を守ることはできません。
そこでひとびとは一国の代表をたて、一般人の便利をまとめて不便を消し去り、政治刑罰をととのえ、そうして勧善懲悪、つまり善をすすめて悪をさばく「法律」というものをはじめました。
これをおこなう代表のことを政府といいます。その首長のことを国君といい、それにしたがう人間のことを官吏といいます。
国の安全をたもち、他国からの侵略や侮辱から守るためには、彼らはかならず必要なものです。
世のなかに仕事の種類はおおいものですが、一国の政治をとりあつかうほど、むずかしいものはありません。
むずかしい骨折りをおこなうひとは、それ相応の報酬をとるのが道理です。
それなら、仕事のむずかしさに応じて報酬もおおくあるべきです。
ゆえに政府の下で生活し、政治の恩恵をうけるもの、つまり国民は、国君や官吏たちの給料がおおいからといって、うらやんではなりません。
政府の法律をただしくうごかし、毎月の税金一万円ほどで、警察が朝から晩まで財産を守ってくれるのだから、官吏へ払う給料もやすいものです。
うらやまないだけではいけません。そのひとを尊敬しなくてはなりません。
ただし国君も官吏も、仕事の苦労をかさね、給料をもらうことの正当性に誇りを持つだけではいけません。自分の仕事の重さが、自分の給料の高さとしっかり比例しているかどうかを、かんがえてみなくてはなりません。これこそが君臣という仕事をあずかった人物の義務というものでしょうか。
以上は、人間が交際するさいの概略です。これの詳細は、たかだか二、三枚の紙でかいなでるのではなく、かならず本を読まなくては理解できるものではありません。
日本の本だけでなく、中国の本を読み、古代インドの本も読み、西洋諸国の本も読まなくてはなりません。
このごろ世間で、天皇学、漢学、洋学などといって、おのおの手製の学派をたてて、べつの学派を批判していますが、それはもってのほかです。
学問とはただ紙にしるしてある文字を読むだけのことで、それほどにむずかしいことではありません。学派のゆきとどくところ、ゆきとどかないところの議論は、まずおたがいの学派の字を読んでからのことです。空論に舌をつかって時間をついやすのは利益のないことです。
人間の知恵をつかって、日本・中国・英仏など、わずか二、三カ国の言葉をまなぶのに、どのていどの苦労だというのでしょうか。
卑怯にも、べつの国の言葉をしらないままに、おのれのしらない学問を批判するのは、男子の恥ずべきことではないでしょうか。
学問をするには、まず学派の得失をつつきあうよりも、まず、わが国の利害をかんがえなくてはなりません。
さいきんより、わが国は外国との交流をはじめました。
外国人のなかにも不正をはたらく人間があり、わが国をまずしくさせ、わが国民を愚者にそだて、自分の利益を得ようとするものもいます。
それならばいま、われら日本人が天皇学、漢学などととなえ、むかしを慕っていまの新方法をよろこばず、結果として世界の人情と世情にみはなされ、みずから貧愚におちいることこそ、外国人が得意とすることではないでしょうか。
これを、彼ら外国人の策におちた人間というのです。
外国人が日本人にふれさせたくないとおもっているのが、西洋学です。
世界じゅうの本を読んで世界の事情に通じ、世界の国際法をもって世界の裁判を話しあうのです。そうして国内で知徳を高めてひとびとの独立をかため、外国とは国際法を守りあって一国の独立をかがやかせるのです。
それができてはじめて、ほんとうの大日本国ではないでしょうか。
これこそ私の着眼で、天皇学・漢学・洋学の得失は論じず、ただ洋学をいそぎ、とりいれるべきだと主張する理由です。
ねがわくは、わが故郷・中津のひとびとも、いまよりもさらに目ざめ、まず洋学に従事してください。みずから苦労を踏んで、みずからの力で食事を得て、他人の自由をさまたげず、自分の自由は満たし、徳をおさめて知恵をひろげ、卑しい心をふきとばし、家内安全、天下富強の意味を理解してもらえればとおもいます。
ひとのだれが、故郷をおもわないひとがいるでしょう。だれが古い知り合いの幸福をいのらないものがいるでしょう。
目をさまし、歩かねばならない日は近いのです。
かんたんにではありますが、筆をとって西洋書の概略をここにしるしました。のちのひとびとに、考察はまかせるのみです。
福沢諭吉