七編(1)

   国民の職分を論ず

 六編では法律の大切さを論じました。

「国民は一人で二人分の役割を演じる」と話したわけです。

 この役目というものについて、もう少し詳しく話しましょう。七編では六編で良い足りなかったことを補うつもりです。

 国民ひとりの体には、とらえかたによって二つの仕事があるといえます。

 ひとつは政府の下に立つ、人民の仕事、という考えかたです。これは客の立場と言い換えることができます。

 もうひとつは国じゅうの人間と約束をかわし、国家という名の大きな会社をむすぶことです。法律という約束ごとを作って、すべてのものごとにほどこしていくことです。こちらは主人の立場といいかえられます。

 たとえば百人の町人のつくった会社があるとします。仲間たちで相談しあい、会社の法をつくり、実行します。そのさまはあたかも、百人のひとが会社の主人のようにみえます。自分たちひとりひとりの意見が反映されているのです。

 しかし、すこし視点をかえてみましょう。自分たちでとりきめた法律を、会社のひとびとでまもっているさまは、まるで百人のひとが会社の客のようにもみえます。

 国家は会社のおおきくなったものです。人民は会社のなかにいるひとです。ひとりで主客のふたつの仕事をしているのです。

 第一。

 まず、客としての視点からものごとをみていきましょう。

 人民たちは法律をだいじにし、法律がほんらい守ろうとしている、人間が同等であるということを忘れてはなりません。

 他人によって自分の権利に傷をくわえられたりしない場合、他人の権利もまた傷つけてはなりません。自分が楽しい思いをするものには、他人も楽しい思いをします。これを他人からうばって、自分だけのふところに囲って、楽しみを増すようなことはしてはなりません。他人の財産をぬすんで自分の富にしてはなりません。ひとをころしてはなりません。ありもしないウソをならべたて、ひとをおとしいれてはなりません。

 法律を守ることで、相手と自分が同等であるようにしましょう。

 国の形によっては、特色のある法律が出されます。専制なら専制にあった法律、共和なら共和にあった法律があるのです。決まる法は、おろかしくもあったり、不便であったりするときもあります。ですが、みだりにやぶるようなことがあってはなりません。

 戦争をするのも外国と条約をむすぶのも、政府だけが持つ権利です。この権利は、人民が約束のもとに政府にあたえたものです。政治をする権利をもっていない人民たちが、政治のおこないに口だししてはなりません。

 もしも人民たちがこの趣旨をわすれ、政府のおこなうことが自分の意志とそぐわないからといって、勝手な議論をしたりすればどうなるでしょう。

 また、条約をやぶったり、人民ひとりのはかりごとで争いをおこそうとしたり、ことによってはひとり刀をもってとびだすようなことがおこるとしたら、どうでしょう。

 そうなれば国の政治は、一日であっても続くことはないでしょう。これを、さきほどの百人の会社にふりかかるできごとでたとえてみましょう。

 まず百人が相談をかさねたうえで、会社のなかの十人をえらんで支配人とさだめます。その支配人のきめたことが、のこり九十人のものたちの意にかないません。のこったものたちは口々に商売のしかたを議論しはじめます。支配人が酒を売ろうとすれば、九十人はぼた餅を仕入れようとします。

 こうなれば九十人は寄せ集めのようにまとまりがなくなります。いっていることもそれぞれがちがうようになります。いちばんわるいことですが、個人的な判断でひそかにぼた餅の取引をはじめるものもいましょう。会社の約束ごとをやぶって、ほかのひとたちと口げんかにでもなれば、会社は商売らしいことなど一日もできなくなることでしょう。さいごには会社がくずれることになります。

 損をするのはひとりだけではなく、百人全員がうけることになります。おろかしすぎるというものです。

 だからこそ、法律はどこかに不備があっても、よろしくないことでも、それを口実にしてやぶるようなことをしてはいけないのです。もしも、いまの法律に不便なところやただしくないところをみとめたのなら、国の支配人である政府にそれを説明しましょう。そうしてしずかに法律をあらためさせるのです。政府がその言葉をきかなかった場合は、さらに言葉に熱をこめるか、ひたすら耐えて待つべきです。

 第二。

 主人としての立場からものごとをみていきましょう。

 一国の人民は、政府そのものである、といいかえることができます。

 政治というのは、国に生きるひとびとが全員でかかりきるのではありません。そんなに人数のいるものではありません。ですから政府というものをつくって政治をもたせたのです。その政府に、人民のかわりにものごとをおこなってくれ、と仕事をまかせたのです。

 人民は政府の生みの親とも、主人ともいえるわけです。

 政府は代理人です。そして支配人です。

 もういちど、百人のおこした会社でたとえてみましょう。

 百人のなかからえらばれた十人は政府で、のこり九十人は人民です。九十人の会社員たちは、自分で事務をすることはありません。しかし自分の代理人として十人の支配人に会社のゆくさきをまかせています。これならば彼ら九十人は会社の主人といわざるを得ないでしょう。

 十人の仕事は、事務すべてをとりあつかうことです。会社のたのみをうけ、会社員たちの意思にしたがった行動をとると約束したものたちです。彼らのおこなうことは私的なものではなく、会社の仕事をつとめる公的なものです。

 世間では政府にかかわって仕事をすることを公務とか、公用とかいいます。この漢字があてられたそもそもの意味を説明しましょう。

 政府の仕事とは、一般の人たちがやるような、自分たちの用を果たすための商売とは違います。国民の代わりになって一国をなだらかに動かすための、公の仕事という意味です。

 こういうわけで、政府とは人民の頼みを受けなくてはならないものといえます。

 人民との約束のもとに、一国に住むひとびとの体から、生まれながらに大事だとか浅ましいとか、そういった悪い習慣をぬぐい去り、権利を高めなくてはならないのです。法律をただしくととのえ、罰則をきびしくしなくてはなりません。この仕事に、わずかであっても役人の不正なものをいれてはなりません。

 いま、ここに悪党集団があらわれて、ひとの家に押し入るとしましょう。政府がその悪党のやっていることをみておきながら、とどめることができなければ、政府もまた悪党集団のひとりといってもよいでしょう。

 もしも政府が法律をつかいきれず、人民が被害を受けるようなことがあったとします。程度の大きい、少ない、事件の古い、新しいを問わず、かならず人民につぐなわないといけません。

 たとえば役人の配慮がたらずに、国内の人が外国の人になにかを損失させたとします。とうぜん、賠償金として三万円を払うという話が持ち上がるわけです。政府自身はお金など持ってはいません。賠償金を払うのはじっさいは人民です。この三万円を、日本の人口で割り振ってみましょう。三千万人(当時の人口)がこの三万円の賠償金を払うことにすると、ひとり十文になります。

 役人の失敗が十回かさなれば、人民はひとり百文をださなくてはなりません。家族五人の家であれば、五百文です。田舎の百姓に五百文があれば、一家そろってごちそうを作って、ひと晩の楽しみが尽くせます。

 それなのに日本じゅうの罪のない人々が、役人の失敗のために、その一晩の楽しみを失ってしまうのです。気の毒なかぎりです。人民としてはこれほど馬鹿らしいお金を出すような理由はない、というふうに思えます。

 しかし人民は国の主人です。

 政府に国をまかせ、事務をあずけると約束をかわしました。でしたら、損得の両方を主人が引き受けるというのがあるべき姿です。

 お金をうしなったときだけ、役人の進退をどうこう議論するなど、してはなりません。

 人民たちはいつも心をとぎすまし、政府のすることに注意していなくてはなりません。そして安心できないような部分をみとめたら、親切にその場所をおしえて、遠慮することなく、おだやかにさとすのです。

 人民は一国の主人です。国を守るためのお金を払うのは、人民の分といえます。お金を出すにさいして、けっして不平そうな顔をしてはいけません。

 国を守るためには役人たちの給料がなくてはなりません。陸海軍の軍費も必要です。裁判所にもお金がいります。地方官にもです。

 こうしてみれば国を動かすのには大金がかかるように思えます。ですがこの大金を国じゅうのひとに割りふってみると、どれほどの金額になることでしょう。日本で一年に得られる歳入を、一人ひとりに割り振ってみれば、一円か二円にしかなりません。

 一年のあいだにわずか一、二円のお金で政府の保護を受けられるのです。夜盗などが忍びこむ心配をする必要もなくなります。一人旅で山賊におそれることもなくなります。平和に生きるために、この一、二円がおおきな得をよぶのです。

 世のなかにはうまい商売と言われるものがたくさんあります。が、税金を払うことで政府の保護を買えるということほど、安あがりなものはないでしょう。

 家にお金をかける人はよくいます。よい服、よい食にこだわる人もいます。はなはだしいことですが、酒色のためにお金を無駄についやす人もいます。

 このようなことは、税金のはこぶ幸福などとは比べることすらおこがましいと言えます。使うべきではないお金には、一銭であろうとも惜しむべきです。税金は、道理として払わねばならないものです。道理でのべられるだけではありません。お金を出して安いものが買えるのなら、考えるまでもなく、こころよく払っていいものといえましょう。

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