二編(1)

 端書はしがき

 学問を広げて説明するなら、無形の学問と有形の学問があります。

 倫理学、神学、哲学などは、形のない無形の学問です。天文、地理、物理学、化学などは、形のある有形の学問です。

 どれもみな知識や見聞(けんぶん)を広くしてくれて、物事のなりたちを見分け、人としての職分を知るためのものです。知識や見聞を広くするためには、人の話を聞いたり、深く考えをめぐらせたり、書物を読んだりするのを嫌がってはいけません。とはいえ学問では文字を知ることはだいじですが、ただ文字を読むだけで学問をしたというのは、大きな思い違いです。

 文字は学問をするための道具です。

 家を建てるのに、かなづち、のこぎりが必要なのと同じです。かなづち、のこぎりは建築するのに欠かすことのできない道具です。が、その道具の名前を知るだけで、家を建てる方法を知らないものは、大工とはいえません。

 これと同じ理由で、文を読むことだけを知って、物事の道理を見分けられないものは、学問をしているものとはいえません。

「論語よみの論語しらず」とは、このことです。

 わが国の「古事記」を暗唱できても、いまの米の相場を知らないものは、生計に暗い人といえます。経書・史類(経書は中国古代の道徳書、たとえば『論語』、『孟子』など。史類は歴史書の意で『史記』、『漢書』など)の真理にゆきついた人も、商売のやりかたを知らず、正しい取引ができないものは、勘定のできない人です。数年もの歳月をかけて苦行に耐え、勉強のためのお金を何千万もついやして洋学をなしとげても、いまだにひとりで生きる方法をつかめないでいるものは、やはり生活力のない人です。

 これらの人々は文の問屋としかいえません。飯を食う辞書といっても差しつかえありません。国からすれば無用の長物、経済にじゃまな居候(いそうろう)です。

 生計も学問です。時の流れを正しく読むのも、また学問です。

 かならずしも和漢洋の書物を読むことだけが学問ではありません。

 この本を『学問のすすめ』と名づけましたが、けっして本を読むことだけをすすめているではありません。

 本書は、西洋の文を訳したものや、その本意を翻訳したものを例にとり、また、形のある物事についても、形のない物事についても、多くの人々にわかりやすい例をあげながら、学問の本意をしめしたものです。

 最初に同郷の友人に書いた一冊を初編として、その真意を広げて、このたびの二編をつづり、ついで三、四編も書いてゆきます。

二編(2)へ