二編(2)

   人は同等なること

 初編の始めのところで、人はみな同じ位で、生まれながらにして上下の区別はなく、自由である、といいました。この意味を、もう少し掘りさげてみましょう。

 人が生まれるのは自然のなりゆきで、人力ではありません。人々はたがいに敬愛しあい、おのおのの職分に尽くして、互いに邪魔をしあわないようにしましょう。

 おなじ人間として、おなじ天をあおいで、おなじ天地のなかに命をさずかったのならばとうぜんのことです。兄弟の仲がいいのは、おなじ家に住んで父母をともにしたからです。これとおなじです。

 ですからいま、人を測りにかけてみると、同等といってよいと思います。ただしこの同等とは、姿かたち、身分が同じだというのではありません。平等なのは、あたえられた権利です。ひとりひとりのありさまを観察してみると、貧富、強弱、賢愚、いずれをとっても、その差ははげしいものです。大名華族として御殿に腰かけ、きらびやかな生活をいとなむ人もいます。人足(にんそく)として日の当たらない借家に住み、きょうの食事にも困るものもいます。才知をとぎすまして役人や商人になり、天下を動かすものもいます。知恵も分別(ふんべつ)もなく、一生をアメやオコシを売って過ごす者もいます。力のたしかな相撲取りもおり、かよわいお姫さまもおります。まさに雲泥のちがいです。

 右の人と左の人の持っている権利を見比べてみても、わずかな違いはみあたりません。

 すなわち権利とは、自分の命を尊重しようとする心です。自分の所有物をまもる思いです。名誉や目的をだいじにする意思です。

 侵してはならないもののことです。

 天が人を生んだとき、どうじに、心と体をあたえました。このふたつは自分のするべきことを果たすためのものです。

 ですから、どんなことがあっても、天からあたえられたに等しいこの権利を、人が汚してはなりません。

 大名の命も人足の命も、命の重さは同じです。豪商の百万両の金も、アメやオコシの四文のお金も、自分が手にしたものとして守ろうと思う心は同じです。

 悪いことわざに「泣く子と地頭(じとう)にはかなわず」というものと「親と主人は無理を云うもの」というものがあります。こういうことわざを盾に、権利を折るべきもののようにいうものもいます。

 これは職業の違いだけを大事にした、あやまった理屈です。地頭と百姓は、たしかに職業が違います。地頭は土地をみまもり、そこからあがった収穫の一部をとる仕事です。百姓は土地でとった収穫を地頭におさめ、自分やほかのたくさんの食事を守る仕事です。違うのは仕事だけで、持ち前の権利はなんら変わりません。百姓に痛いことなら、地頭にも痛いはずです。地頭が甘いと感じるものは、百姓にも甘いはずです。痛いものを遠ざけて、甘いものを手にいれようとするのは、当然の人の心です。ほかの人の邪魔をせずに、ほしいものを手にいれようとするのは、人がもつ権利です。

 地頭は富んでいるので力が強く、百姓はまずしいので力がありません。

 貧富と強弱は、表面にあらわれる力です。これらはもともと平等ではありません。

 富んで、力が強いからといって、まずしく弱いものに危害をくわえるのは、自分と職業が違うというだけで、その人の権利を追いやることです。

 たとえば力士が、自分に力があるからといって、隣にいる人の腕を折るのと同じです。隣にいる人は力士よりも弱いのはたしかですが、その腕で自分の用を果たすのにこまることはありません。その腕が野菜を作るかもしれません。帳面に筆をたてるのかもしれません。それなのに、理由もなく力士に腕を折られるのは、迷惑としかいいようがありません。

 このたとえを、世のなかに当てはめてみましょう。(いまのべたのはウェーランド「修身論」によったものです。)

 旧幕府のころには四民は平等ではありませんでした。士族は意味もなく権威を乱用し、百姓や町人を、まるで目の下の罪人のようにあつかっていました。

 斬り捨て御免などという法律もありました。この法律の理屈によれば、平民の命は自分の命ではなく、しょせん借り物にすぎない、だからなにをしてもいい、だそうです。

 百姓、町人はなんの関係もない士族に頭をさげ、外では道をゆずって、内では席を渡さなければなりませんでした。はなはだしいことには、自分の家の馬にも乗れないような扱いをうけていました。許せないことです。

 いまのべたのは、士族と平民とを個人単位でくらべた場合です。政府と人民とに広げて観察してみると、もっと見苦しくなります。

 幕府はもちろんいうまでもありませんが、三百の諸侯は諸侯で、統治する領内であたかもちいさな政府のようにふるまっていました。百姓や町人をあしざまにする。ときどき慈悲ある行為に似たようなことをすることがありますが、よくよくみてみると、しっかりとひとの権利をうばいとっています。正視に耐えません。

 そもそも政府と人民の関係は、前にもいいましたが、強弱が違うだけです。みながもっている権利に差はありません。

 百姓は米をつくって、人々の食料を提供し、町人はものを売買して、血液のながれのように世のなかの循環をたすける。

 百姓、町人の商売です。

 政府は法律をつくって、悪人をゆるさず、善人をまもる。

 それが政府の商売です。

 政府がこの商売をするには、とてもたくさんのお金が必要です。しかし政府には米もなく、お金もありません。ですから百姓や町人から年貢や税をとって、政府の生計をまかなおうという決まりごとを、人々の了解のもとにきずきました。これこそ政府と人民の約束です。百姓、町人は年貢と税をだして、さだめられた法律を守っていれば、その分を果たしたといえます。政府は年貢(ねんぐ)と税をただしく使って人民をまもれば、その()を果たしたといえます。おたがいに分を尽くし、約束を守っていれば、なにもいうことはありません。これを踏まえた上ならば、おのおのの権利を思うぞんぶんにふるっても、だれの迷惑にもなりません。

 わが国にまだ幕府があったとき、平民は政府のことをお上さまとあげつらって、士族はそのお上の御用とのたまって重みのない威光をふるっていました。それだけではありません。旅館の銭も踏みたおし、洗濯場にお金をわたさず、人足に賃金をあたえない者もいました。そればかりか、主人が人足をおどして酒代をねじりとるという話もありました。論外です。

 殿さまの物好きで実のない建築をし、または役人の手引きで悪事をおこし、無駄に金をついやす。必要な費用が足らなくなれば、美辞麗句をまつって年貢を増やして、なにかと理由をつけて税をとり、これは国の恩に報いるためのものだ、という言葉をかかげて盾にする。

 そもそも国の恩とは、どのあたりのことを恩というのでしょうか。

 百姓、町人が平和に仕事に精をだし、盗みや人殺しなどの心配をせずにのびのびと暮らすことだそうです。

 たしかに平和は政府の法のおかげです。が、法をつかって人々を守るのは政府の商売柄で、とうぜん果たすべき分にすぎません。これを御恩などといってはなりません。

 政府が人民にかける保護を恩というなら、百姓、町人は年貢や税をおさめることを国にあたえた御恩ときりかえすでしょう。

 人民が国にたいして起こしてくる訴訟を、政府が「面倒なことをもちかけて」とこぼせば、人民もまたいうでしょう。「十俵つくった米のうち、五俵の年貢をとられるのではやる気がそがれる」と。

 売り言葉に買い言葉で、際限のない言い合いです。平等に恩があるなら、あちらも礼をいって、こちらも礼をいうのが道理でしょう。

 こんな悪風が起こるのは、どういうときでしょうか。人間が同等なもの、という大命題を頭にいれず、貧富と強弱を悪用し、政府が強いのをいいことに、弱い平民の権利を邪魔しているときです。ですから、悪風の生まれないよう、おたがいがつねに同等であることを意識しましょう。これは人間の世に、もっとも大切なことです。西洋の言葉で、これをレシプロシティ(reciprocity 相互関係)またはエクォリティ(equality 平等関係)といいます。

 初編でいった、万人はみな同じ位というのは、このことです。

 と、ここまでは百姓、町人の側に立ってみた場合です。

 逆のみかた、すなわち政府からみた視点もあります。

 人をとりあつかうには、その相手の人となりに応じて、法の加減を決めるべきです。人民と政府の関係はもともと、ひとつのものでした。それを職業という名前をあたえて役目をわけ、政府は人民のかわりに法をほどこし、人民はこの法をまもらなくてはならない、と両者で約束をとりかわしました。この日本で明治の年号をうけいれたことで、いまの政府の法にしたがうことを誓った人民が、このたとえにおさまります。ですから、いちど法律として決まったことには、たとえ、あるひとりの人民に不都合な法律でも、改正されるまではこの法にしたがわねばなりません。慎み深く、守らなくてはなりません。それこそ人民の分です。

 それなのに世には、無学文盲(もんもう)、道理の「ど」の字もしらず、できることといえば飲食と、寝る、起きるのみといった者も少なくありません。彼らは無学のくせに欲だけは深く、人をだましたり、法律のすきまを縫って悪事をはたらきます。彼らは法律がなんのためにあるかを知りません。自分の分を知らないのです。子をたくさん産んでも、その子たちに教えるべきものごとを知らなければ、恥も法律も知らない大馬鹿者がたくさんできあがるのみです。こんな子孫には、一国の利益がないばかりか、かえって悪疫をばらまく種となりましょう。

 こんな大馬鹿者にとても道理は通じません。力でおどしつけて、さしあたり、起こりそうな災いをしずめるよりほかにありません。

 これが暴政府の起こる原因です。旧幕府だけではありません。アジア諸国も昔からそうです。

 暴政が起こるのは、暴君のせいだけではありません。人民が無知だから招かれる災いでもあります。暗殺をしようとするもの、新法を誤解して一揆(いっき)を起こすもの、徒党を組んで金持ちの家をこわして酒やお金を盗むもの、などのせいです。そのおこないはもはや人間のものとは思えません。こんな賊民をとりおさえるのに、釈迦(しゃか)も孔子も名案がないのは当然です。ひどい政治の切っ先を彼らの背中に突きつけて、無理にでも導くべきです。

 これらをまとめましょう。

 暴政を避けたいなら、いますぐにでも学問をこころざして、みずからの才能をみがきましょう。そして政府とならんで、同等の地位にのぼらなくてはなりません。

 これこそが私のすすめる学問の目的です。

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