五編(2)

 明治七年一月一日の詞

 いま私は、慶応義塾で明治七年一月一日を迎えました。この明治という年号は、わが国が独立した記念すべき年号です。この塾は私と私の仲間たちが独立を果たした記念すべき塾です。独立の塾にいながら、独立の新年を見ることができるのはとてもうれしいことです。しかし手にいれて喜べるものとは、手ばなせば悲しんでしまうものです。今日は喜んではいても、いつか悲しむ時がくることがあることも忘れてはなりません。

 平和と争乱の移り変わりの中で、わが国の政府はしばしばあらたまってきました。今にいたるまで国の独立を失わなかったのは、国民たちが鎖国の作り出すぬるま湯に甘んじていたためです。治乱においても興廃においても、外国がからんでいたという話はありませんでした。外国とかかわりがなければ、治も一国内だけのかんたんな話です。乱も一国のなかの一小事です。また、この治乱のためにうしなわれる独立も、ただ一国だけの独立です。ほかの国としのぎをけずった争いをして、生きのこってきたわけではありません。温室でそだった植物が、荒波渦まく自然界のことをしらないのとおなじです。そのような植物がよわいことは、いうまでもありません。

 外国とのかかわりがとつぜんにひらかれました。国内のものごとで、ひとつとして海外の息吹のかかっていないものはありません。すべてのもの、ことを、外国とくらべて片づけなくてはなりません。わが国の力だけでつちかってきた文明の力を、西洋諸国の力とくらべてみると、あまりの格差におそれおおくなってさえきます。この文明のたかさを真似しようとすれば、そのときにたちはだかる苦労と問題をまのあたりにし、ますますわが国のよわさをしることになるでしょう。

 国の文明はかたちだけできめられるわけではありません。学校、工業、陸軍、海軍。これらはみな、文明のかたちです。うつわであり、いれものであり、中身ではありません。かたちをつくるのは、それほど苦労することではありません。お金さえだせば手にはいるものです。

 ところが、いったん手にいれたものには、かたちのない無形のものがやどります。

 それは目にみえず、耳にきこえず、売買されておらず、貸借されてもいません。そのくせにすべての国のひとびとのなかで、つよい作用をしています。これがなければ学校や商売、法律なども意味をなしません。文明の精神というべき、もっともだいじな力です。この無形のものとはなんでしょう。

 人民の独立の気力です。

 いまの政府は、よく学校を建て、工業をすすめ、陸海軍の制度も実のあるものに生まれかわりました。文明の「かたち」だけはととのっています。

 ですが中身はどうでしょう。

 いまの人民には外国と正面からわたりあって、自分の独立をかため、彼らのうえをいこうとするものはいません。たとえば、ある人物が、外国の力量をしる機会が得られそうな状況にめぐまれたとします。しかし、そのひとは外国をしろうとしないばかりか、そとからおそれるだけです。ひとが恐怖をいだくと、そのむこうにたとえ魅力的なものが待っているとしても、すすもうとはしません。けっきょく、人民に独立の気力がなければ、文明の「かたち」も中身が軽いものになってしまいます。

 そもそも、わが国のひとびとに独立の気力がないのはどうしてでしょう。千数百年まえから、政府は国を好きにできる権利をもっていました。武備、文学から工業、商売にいたるまで、人間のちいさな用事のひとつひとつまでです。ひとびとは政府にあやつられるままに、しめされた方向に走らされてきました。あたかも国は政府の私物のようで、人民は国にたちよった客人のようです。この宿なしの客人は、だまっていても国の用意するごちそうを手にすることができるのですから、国をみる目もまるで宿屋のようになります。とうぜん国がこまったときがあっても手をさしのべはしません。このようなひとびとなので、気力をみせることもありません。そうしているうちに、ついにあの気風をつくりだしてしまうのです。

 いま、この気風以上に問題のある話があります。世間のものごとはすべて、すすまないひとはかならずうしろにしりぞきます。しりぞかないひとはかならずまえにすすみます。

 すすまない、しりぞかない、うごかないというものはありえないのです。いまこの瞬間も文明はゆれています。

 日本の姿をみてみると、文明のかたちは進化しているようにみえます。ですがその中身ともいえる人民の気力は日に日にずりおちています。

 ためしに証明できそうな例をあげましょう。

 足利幕府や徳川幕府のころ、政府は人民たちをたばねるのに力だけをつかってきました。人民たちが政府にしたがっていたのは、自分たちに幕府の力をはねのけるだけの力がなかったためです。力のおよばないものは、つよいものに心から寄り添うのではありません。おそれて服従したふりをとりつくろうだけです。いまの政府は、たんに力があるだけではありません。その知恵は、どこまでもとぎすまされています。これまで事件のあったときに手遅れになるような失敗はしていません。維新から十年もたっていませんが、学校と武備をあらためました。鉄道と電信を張りました。銀行をつくり、鉄橋をかけました。その決断と実行の早さ、つくりだしたものの完成度、ほんとうにおどろきます。

 学校、武備は政府がつくった学校、武備です。鉄道、電信も政府の鉄道、電信です。銀行、鉄橋も政府のおこした銀行、鉄橋です。その政府に人民はなにをみるでしょう。きっと、ひとびとはいうでしょう。

「政府はたんに力があるだけではない。知恵までもかねそなえている。私などではこのような真似はできない。政府は雲のうえから国をうごかし、私たちは土のうえから政府にたよる。国のことを心配するのは政府の仕事。いやしい私たちのする仕事ではない」

 むかしの政府は力をつかい、いまの政府は力と知恵をつかいます。むかしの政府はひとびとをうごかす方法がとぼしく、いまの政府はよく心得ています。むかしの政府は人民たちの体を折り、いまの政府は人民たちの心を折ります。

 むかしの民は政府を鬼のようにおもい、いまの民は政府を神のようにながめます。むかしの民は政府をこわがり、いまの民は政府をあがめたてまつります。このような状態をかえようとせず、いまのままでいるならば、政府がなにかをするたびに、文明の「かたち」はすこしずつ格好のいいものにはなります。ですが人民たちはいよいよ気力をうしない、文明の中身である精神はおとろえていきます。

 いまの政府には常備軍という兵隊があります。彼らは護国をあずかっただいじな兵で、そのつよさをほこるべきですが、人民たちの反応はどうでしょう。威圧するための道具のようにみて、おそれるだけです。

 いまの政府には学校、鉄道があります。人民たちはこれらを文明の象徴として誇るのがふつうです。ところが彼らはこれを政府の威光のたまものととらえ、おがみたおします。ますます他力本願ぶりにみがきがかかるのです。人民はすでに自分の政府に頭があがらないようになっているのです。

 どうして外国ときそって、文明の高みを目ざそうとしないのでしょう。

 人民に独立の気力がなければ、文明の「かたち」をつくったところで、彼らではなんの役にもたてられません。それどころか文明は、ひとびとの心を退化させる道具になりさがってしまいます。

 このようなことから、いえることがあります。

 国の文明は政府だけでおこしてはなりません。人民だけで生んでもいけません。かならず両者の力をあわせ、ひとびとのゆくさきをしめし、政府とともに成功させましょう。西洋の歴史書をみてみると、商売、工業の方法に、ひとつとして政府がつくりだしたものはありません。

 これらの基本をつくったのは、中級の地位にある学者たちです。

 蒸気機関はワット(James Watt)の発明です。

 鉄道はステフェンソン(George Stephenson)が工夫をこらした末に完成しました。

 経済に法則がある、とひとびとにおしえたのはアダム・スミス(Adam Smith)です。

 彼らはいわゆるミドルクラス(middle class)という立場にあるひとびとで、国の大臣ではありません。力仕事の小民でもありません。国のなかの中位の存在で、知恵をもったひとびとがこの世をうごかしたのです。くふうや発明といったひらめきは、まずこういうひとたちの心に舞いおります。これをじっさいに行動にうつすには、民として官のそとで生きるひとびとの協力をあおぎ、規模をおおきくしてから実行します。こうしてひとびとの幸福をのちの世までのこすのです。このとき政府はというと、彼らのじゃまをしないように、あるべきときにいたれば手をさしのべ、人心の道すじをみまもるだけです。

 あちらの国では、文明をじっさいにのばすのは人民です。文明をまもっていくのは政府です。文明はひとびとの財産です。となりの国と文明をきそい、争い、うらやみ、そして自国のものを誇っています。国でよい話があれば、彼らは手をうってよろこびます。他国に差をつけられることを純粋におそれています。だからこそ、文明をかたちどるものはすべて、人民たちの気力をたかめるための薬にもなります。国でつくられたもののすべてが、彼らの力となるのです。このありさまはわが国のようすとは正反対です。

 わが国のなかで、さきほどのべたミドルクラスの地位にいて、文明が必要なものだととなえ、国の独立をまもれるのは学者だけです。

 ですが彼らには時勢を読むような眼力がありません。あるいは国を心配するような心をもっていません。世の気風につかったために政府をたよるだけ、というものもいます。

 こういうものたちがほとんどです。

 自分の地位に不満足で、官になり、ささいな事務を片づけることで心身を腐らせています。そのおこないはわらうに足ります。しかし彼らはそれをわかっていながら甘んじ、ひともまた彼らをあやしみません。学者によっては「民に知恵あるものはない」といって、自分のおこないが暴かれないことをほくそえむものまででている始末です。時勢がよびこんだありさまですから、罪は彼ら個人個人にあるものではありません。

 ですが国の文明にとってみれば、災難としかいえません。文明をうごかさなくてはならない立場にいる学者が、ひとびとの精神が日に日におとろえていくさまをだまって見物しているのには、ため息しかでません。涙をながすしかありません。

 私たち慶応義塾の仲間たちは、このような災難をのがれました。独立の心をうしなわず、独立の塾にいながら独立の気をたくわえました。私たちが果たそうとするのは、全国の独立をまもることのみです。しかし、ときのながれは急流のようでもあり、また台風のように強烈でもあります。

 この力にあらがって、たちあがるのはかんたんではありません。この力に耐えうる力がなければ、しらずにながされ、しらずに魅了されることでしょう。ことによっては、もうにどとたちあがることはできなくなるかもしれません。

 ひとの力とは、ただ読書だけで手にはいるものではありません。読書は学問の方法のひとつにすぎません。学問とは目的をとげるための手段です。

 ことのおこる場所にじっさいにおもむいて、ものごとに慣れていかなければ、けっして力などつきません。

 わが慶応義塾の仲間たちで、この力を手にしたものは、かならずまずしさを耐えて困難にくるしみ、のりこえ、そこで見聞きした知識を文明のためにつかってください。私たちに課せられているものは枚挙まいきょにいとまがありません。商売をしなくてはいけません。よい法律をおこすための議論をしなくてはなりません。工業をおこさなくてはなりません。農業にも触れて感じる必要があります。本も書き、翻訳書をだし、新聞もつくるべきです。文明をかたちづくっているものは、ことごとく手にとるのです。国民たちのまえにたって、政府とたすけあい、民と官の力をほどよくたもちながら、国の力を増やしましょう。

 こうして、いまのよわい独立をつくりなおし、うごかない基盤にしましょう。外国と正面からぶつかりあっても、すこしもゆずってはなりません。これから数十年後の未来、いまこの明治のありさまをふりかえり、その未来の日になりたっているであろう独立を喜ぶのではなく、過去となったいまの日を軽快にわらうようになっていれば、なかなか気分がいいことではありませんか。そして今の人々も学者のように、自分のするべきことを果たすべきです。

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