八編(1)

 わが心をもって他人の身を制すべからず

 アメリカのウェーランド(Francis Wayland)という人が、『モラル・サイエンス』という本を書いています。

 この中に、人の体は自分の思いのままに動かなくてはならないといった意味のところがあります。つまりこういうことです。

 人の体というものは、他人の体ではありません。あたりまえながら、自分の体は自分で思いのままに動かせます。みずからの意思で体を動かし、みずからの意思で考え、みずから自分のやることをきめるのです。そうして自分のすべき仕事をこなすのがふつうです。

 第一。

 人はおのおの自分の体というものを持っています。その体を使って周囲とかかわりあい、そこから必要なものをうけて自分のしたいことを果たしていくのです。たとえば、種をまいて米をつくることや、綿をとって衣服を織ることがそうです。

 第二。

 ひとは知恵をもっている生きものです。

 知恵は、ものを発明するときに力をそえてくれます。なにかをなそうとするとき、知恵はただしい道をみせてくれます。米をつくるさい、肥やしをまいてよりよい米をつくるようにするのも知恵の力です。木綿を織るのがらくになるよう、機織はたおりをつくるのも知恵のたまものです。

 第三。

 人はみな欲を持っています。欲があるから、人は体をうごかします。

 この欲をみたすことで、ひとは幸福を得るのです。ひとに美服美食をきらうものはいません。しかしこの美服美食というものは、そこらへんの土からわいてきて、ひとを満足させてくれるわけではありません。

 得ようとするには、はたらかなくてはならないわけです。つまり仕事というものは、みな欲のすすめるままにおこなうものです。この欲がひとになければ、ひとははたらかなくなるでしょう。はたらかなければ、安心できる暮らしなど手にはいるはずはありません。

 禅坊主は働かないのですから幸福もありません。

 第四。

 ひとはだれしも、ただしい心というものをもっています。至誠といいます。

 至誠の心はゆきすぎる欲に歯止めをかける役割をなします。欲のゆくべき道をただしいほうへむけてくれます。たとえば美服美食というものは、つきつめようとしてもかぎりがありません。もしも自分のするべき仕事をあとにおいて、ひたすら自分ばかりが欲をみたすには、他人に迷惑をかけて自分の利益にする以外に手はありません。

 これは人間のすることとはいえません。

 仕事をするさい欲と道理とをただしくつかいわけることができるのは、至誠の心です。欲と距離をたもちつつ、道理のなかでものごとを片づけるのは、至誠の心といえます。

 第五。

 ひとは意思のある生きものです。意思は、なにかをなしとげようとするつよいおもいを生んでくれます。

 世のなかすべてのできごと、ものごとはぐうぜんでできるものではありません。よいこともわるいこともみな、ひとがなにかをなしとげようとしたときにできるものです。

 以上、この五つのものは人に欠けてはいけない性質です。

 人間がしぜんにそなえた、このいつつの性質の力をあやつって、自分の独立を果たすのです。

 さて、独立、独立といいますが、べつに世捨てびとや変人になれといっているわけではありません。

 人として大地に立つには、友人がかならず必要です。自分は友人と交際し、友人もだれかと交際し、そのだれかもだれかと交際します。世のなかのまじわりとは、まさに人間の交際のひとことであらわせるといえます。これを『社会』といいます。

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