八編(2)

 今のべた五つの力を使うにあたって、注意しなくてはならないことがあります。

 どうあっても法律にしたがい、自分の分を越えないことが必要です。分とは、五つの力を使いつつも、誰の邪魔もしないことをいいます。こうして分をあやまらずに世をわたるのなら、とがめられることもありません。天に罰せられることもないでしょう。これを人間の権義といいます。

 人は他人の権義をさまたげなければ、どのように自分の体を使ってももよいのです。好きな場所に歩いて、心のとまった場所に足をとめ、あるいははたらき、あるいはあそび、あれをしたり、これをしたり、勉強をしたりしてもよいでしょう。なにもせずに一日じゅう寝ていても、他人の迷惑にならなければ、横からあれこれと口だししてはいけません。

 もしも、これに反論をかかげるとしたらどうでしょうか。

「ひとは他人の意志でうごくものだ。たとえば目上のひとの意思。自分の意志でうごくことはよくないことだ」

 この反論は、はたしてただしいのでしょうか。

 ただしいのであれば、人間と名のつく生きものには、かならずつうじるはずです。

 例をみつくろってみましょう。

 天皇は将軍よりえらいものです。天皇の心のおもむくままに、将軍の体を好きほうだいにうごかすとします。いこうとすれば「とまれ」といい、とまろうとすれば「いけ」といいます。寝るのもおきるのも食べるのも、すべて天皇のおもうがままにされます。

 将軍はというと、自分の体をうごかせないぶん、手下の大名たちをあやつります。大名たちもまた、家老の指の一本にいたるまで支配します。家老は使用人の心そのものとなり、使用人は下級侍にのりうつり、下級侍は足軽を制御し、足軽は百姓を意のままにします。

 百姓になると、もう自分よりしたの身分のものはいないので、こまるのみです。

 ですがもともと人間世界というものは、めぐりめぐって循環するものです。海が蒸発して雲になり、雲は雨をふらせ、雨は川をつくり、また海へもどっていくのです。

「百姓もひと。天皇もひとだ。遠慮することはない」とことわって、百姓の心で天皇の体をつかうことでしょう。行幸ぎょうこう(天皇がやってくること)をしようとすれば「とまれ」ととどめ、行在所あんざいしょ(仮宮)にとまろうとすれば「還御かんぎょ(いってらっしゃい)」とさけぶこともあるでしょう。起居眠食、すべてが百姓のおもいのままです。みごとな着物、ぜいたくな食事をやめさせ、天皇に麦飯をすするよう命じたら、どうなることでしょう。

 このように自分の意思を捨ててしまうことは、日本国民が自分の体をつかう権義を捨てるのとおなじことです。他人の体をうごかす権義だけをもっているというありさまになります。

 これだと、ひとの体のなかに心はないということになります。他人の意思でなければうごかない機械人形とおなじです。下戸げこ(お酒が飲めないひと)の体には上戸じょうこ(お酒飲み)の魂がそそがれます。子どもの若い体には老人の心がとどまります。盗賊とうぞくのあさましくよごれた魂は、道徳をきわめた孔子にはいります。猟師りょうし釈迦しゃかの体にそえられます。

 下戸げこが酒を飲み干し、上戸じょうこは砂糖湯を飲むだけで満足を打ちます。子どもは杖をついてひとの世話を焼き、孔子は弟子たちをひきいて村をおそい、釈迦しゃか鉄砲てっぽうをかかえてひとごろしにでかけます。奇です。妙です。不可思議です。

 こんなものを天のあたえた道理というのでしょうか。これをひとの心がつくりだす人情というのでしょうか。このありさまを文明開化などとたたえるのでしょうか。

 三歳の子どもでも、かんたんにこたえをだせる問題です。

 数千百年ものむかしから和漢の学者たちがつくりだそうとしたのは、まさにこれです。

 上下のかかわりをただしくしろとか、身分の高い低いをきめるべきだとか、やかましくいっていたのは、この学者たちが他人の魂をべつの人間にうつそうとしたためです。

 このおろかなありさまをつくりだすために、彼らはひたすらひとにおしえ、これを説明し、涙々にさとしてきました。末世になったいま、ようやく学者さまがたの功徳くどくも効果をあらわしはじめてきているようです。このありさまをみて、学者先生も得意の色をなしていることでしょう。神々や周時代の聖賢も、かくれてわらっていることでしょう。

 いま、実のなった彼らの成果のいくつかを説明しましょう。

 政府はその力で小民をおさえつける、という話は前編にもしるしたのでここでは略します。

 まず男女間のことでたとえてみましょう。男もひとです。女もひとです。この世に欠かせてはならない用を、両者ともになっています。一日でも男がなければ世はくずれます。一日でも女がなければみだれます。両者の背負ったものはおなじです。

 ちがうのは男は腕力がつよく、女はよわいということです。大の男が女と戦えば、勝つのはあたりまえです。これこそが男女のちがいです。力ずくでひとのものをうばうものや、ひとをはずかしめるものを罪人とよびます。罪人はたちまち刑に処されるでしょう。

 それなのに、家のなかでは公然とひとをはずかしめても、とがめるものがいないのはなぜでしょう。

『女大学』(江戸時代の代表的女子修身書。男尊女卑をといたもの)という本に「女には三種類、したがわねばならないものがある。おさないときは父母にしたがわなくてはならない。嫁となれば夫にしたがわなくてはならない。老いたときには子にしたがわなくてはならない」と書かれています。

 おさないときに父母のいいつけをまもるのはとうぜんです。

 ですが嫁となったとき夫にしたがえというのは、どういう意味なのでしょうか。したがいかたを問わなくてはなりません。

 『女大学』にはこう書いています。酒を飲み、女郎にこびへつらって、妻をののしり、子をたたく、どうしようもない亭主がいるとします。それでも嫁はこの亭主にしたがい、天のようにうやまい、とうとび、耳ざわりのよい言葉をなげかけてやんわりと意見をしなくてはならない、と。

 このあとはどうすればいいのでしょうか。なにも書かれてはいません。ならばこの本でいいたいこととは、阿呆あほうでも夫とすると約束したのであれば、したがわねばならないということらしいです。嫁は、どのような屈辱をうけても、心にない笑顔をつくって、いさめる権義があるだけです。言葉をききいれるか、ききいれないか、それはすべて淫夫の自由です。嫁には、夫のいうこと、やることを天命とおもってあきらめる以外にゆるされてはいません。

 仏書に、女は罪がおおいとあります。

 女は生まれながらに大罪を犯した罪人だそうです。また、女の責めたてかたもあくどいものといえます。『女大学』に婦人の七去、というのがあります。

 七去というのは、夫が嫁と離婚してもいい理由になる、七つの項目です。嫁と離婚するかどうかをきめるのはすべて夫で、嫁にこの七去はもうけられていません。この七去のなかに「淫乱なれば去る」というのがあります。つまり嫁がみだらであれば離婚できるのです。

 夫は浮気をしてよくても、嫁はだめだという意味です。

 男のためには便利な話です。あまりにかたよったおしえです。男の力がつよく、女の力がよわいのをいいことに、腕の力で男女に上下をごりおしているおしえです。

 また、めかけ(たくさん妻をもつこと)についてもいえることがあります。

 この世に生まれる男女の数の比は、だいたいおなじです。西洋人の実験によると、男が二十二人生まれるころには女が二十人生まれる計算になるといいます。

 ならば一夫で何人もの妻をめとるということは、道理にそむくおこないであるのはあきらかです。一夫多妻制などというのは、獣のすることといってもさしつかえありません。

 父をともにし母をともにするものを兄弟といいます。父母兄弟が住む場所を家といいます。兄弟、父をおなじにしながら、母と血がちがうというのはいかがなことでしょう。

 父はひとりで、母は群れをなす。

 これを人間の家といえるでしょうか。家という漢字がほんらいの意味をうしなっています。りっぱな建物をかまえ、御殿ごでんがきれいであっても、私からいわせてもらえば、それはひとの家ではありません。畜生ちくしょうの小屋といわざるを得ません。

 妻とめかけがひとつの家にかたまって、家のなかが平和におさまるという話は、きいたことがありません。妾もひとの子です。夫となる男の一時の欲のために、妾、つまりひとの子を獣のようにつかうとはなんたることでしょうか。これは家の風俗をかきみだし、子孫たちに悪い教育となります。そこからわざわいを天下にたれながすことでしょう。どうしてこれをするものを罪人といわないのでしょうか。

 ひとはいいます。「妾をたくさん得たところで、彼女たちのあつかいをわるくしなければ、ひとの世に悪い例をのこさない」と。

 そういっているのは、夫だけです。

 もしもこの言葉がたしかなら、一婦で多夫をやしなって、この夫たちを男妾と名づけてはどうでしょうか。これで家をよくおさめてみてください。社会にわずかたりとも傷をつけなければ、私も口やかましくいうのをやめましょう。

 世の男たちは自分をみつめ、かえりみるべきです。

 あるひとがいいます。「妾をやしなうのは、あととりをつくるためだ。孟子もうしのおしえのなかには、親不孝には三種類がある、というのがある。そのなかで、あととりがいないことを、もっともはなはだしい親不孝とする」と。

 私はこたえます。天の道理にそむくことをいうものは、孟子であろうと孔子であろうと遠慮することはありません。罪人と指さしてもいい。

 めとった妻が子どもを生まないからといって、妻を親不孝者と責めるとはなにごとでしょう。妻が子を生まないから妾を得る。逃げ口上にしても始末が悪すぎます。

 仮にも人間の心をもっているのなら、だれが孟子の妄言を信じるのでしょうか。

 親不孝というのは、子が道理にそむいたおこないをして親をかなしませることです。もちろん老人の心情としては、孫が生まれるときによろこぶのはとうぜんです。ですが孫の誕生がおそいといって、自分の子どもを親不孝ものなどといってはいけません。

 ためしに天下の父母に問いましょう。自分の子どもに良縁があって、よいよめをもったとします。けれども嫁が孫を生まないからといって、嫁を怒り、嫁をしかりつけ、婿むこをムチ打ったり、勘当かんどうしようとするでしょうか。世界ひろしといえども、いまだこのような変人の話はきいたことがありません。

 さきほどの『女大学』も孟子の言も、事実にてらすこともできない役たたずの空論です。

 いちいち説明するまでもありません。このようなことは自分の心になげかけて、自分でこたえるべきものです。

 親に孝行をするのはひととしてとうぜんのことです。老人が目のまえにいれば、他人であっても親切にするというのもあたりまえです。ましてや、自分の親に尽くさないようではいけません。利得のためではありません。うわっつらのためでもありません。ただ自分の親をおもいやり、体のなかにそなわった誠心のいうままに孝行すべきです。あまりかんがえることはありません。

 和漢では、孝行をすすめている物語はかぞえきれないほどあります。『二十四考』(中国につたわる二十四人の親孝行な子の物語)をはじめ、ほかにある書物は指を折るだけではたりません。そのくせに、こういう本をひもといてみると、十のうちの八割、九割が人間にできない孝行をすすめています。おろかしいおこないを孝行とみなしていて、わらえるものもあります。道理を足蹴にしたようなおこないをほめて、孝行とよぶものもありました。

 寒空のなか、はだかで氷の池に寝そべって、体温で氷をとかす話があります。とけた氷のなかからコイをとって、親に食べさせています。人間にはできません。うすい氷なら石でもつかってくだいたらどうでしょうか。

 夏の夜、自分の体に酒をかぶってをよぶ話などもあります。こうしておけば、親による蚊が自分にくるから、親はまもられるというのです。酒を買う金があれば、このお金で蚊帳かやを手にいれてきて、ふたりではいるほうがかしこい方法です。

 漢時代に郭巨かくきょというひとがいました。彼はまずしかったので、老母をやしなうために自分の子どもを生き埋めにしようとしました。

 減る食料をすくなくするためだそうです。

 そこで子をころすのはどうしてでしょうか。

 親は死んだらとりかえしがつかないが子は死んでもまた手にはいる、という理屈からだといいます。ころされる子の権義は、気もちはどうなるのでしょう。

 生きながら自分の子を埋めようとするその親は、鬼としかいいようがありません。生まれもったひとの情をけがすおこないで、もっともゆるされないことです。孟子は親不孝に三つあるといいました。子を生まないことをいちばんの親不孝といいながら、いま二十四考という本のなかでは、すでに生まれた子どもをころそうとしています。どちらを親孝行というのでしょうか。矛盾むじゅんというものです。

 けっきょくこの親孝行説も、親子のあいだのできもしない理想をえがき、無理に上下の分をつくりだそうとして、子に負担をかけているだけです。

 ここで親が子をめる理由をきいてみるとこうなります。「妊娠にんしん中には母をくるしめ、生まれたあとは三年は父母の目をはなさせることはさせない。この恩をどうしてくれる」だそうです。

 子どもを生んでやしなうのは、人間だけではありません。獣もすることです。ひとと獣のちがいとは、子どもに衣食をあたえ、教育して社会とはどのようなものかをおしえることです。

 それなのに世間の父母は、よく子どもを生みはしますが、教育のしかたをしりません。親は酒や女におぼれたり、犯罪をおこなったりして子どもに悪い例をのこします。そうして堕落に走ることで家をよごし、財産をおとしめ、貧困ひんこんにおちいります。ようやく堕落だらくもゆるやかになったかとおもうと、こんどは財産がないためか、あやまったことを主張するようになります。子どもに呪いを吐きはじめるのです。

 これはいったい、どういう心をしているのでしょうか。どういう面の皮があれば、このようななさけないおこないをすることができるのでしょうか。

 父は子の財産をむさぼろうとし、しゅうとめは嫁をなやませ、父母は自分たちの子ども夫婦をあやつり、父母はまちがったおこないも恥じもせずおしとおす。

 子どもたちは自由にできることなどなくなります。

 嫁は餓鬼がきの地獄におちたかのように、起居だけでなく、ねむることも食べることもままならなくなります。ひとつでもしゅうとしゅうとめの意思にそぐわなければ、ねらったように親不孝ものとののしります。世間のひとも彼らのさまをみておきながら、しょせん自分のことではないので、無理とおもいながらも親のほうに加担かたんして、ともに理不尽なことをいいます。また、その家族のなかでおこっていることをよくみもしないまま、親をあざむいてしまえと耳にささやくひともいます。

 どうしてこれを家族といえるのでしょうか。

 いま私は、どうしてもいいたいことがあります。もしも姑のなかに嫁をくるしめようとするものがいたとき、おもいだしてください。自分がかつて嫁だったころのことを。

 以上は、上下とか貴賎きせんをかかげるためにおこった悪い風習です。それをしめすために、夫婦と親子のありさまをつかってみました。世間ではこういう話はとてもおおいのです。この悪風ですが、人間がひとと話すときや、なにかをするときのちょっとしたしぐさの、そこかしこにみてとれます。

 なお、その例は次編にもちこします。

 注記

 七去…第一、舅姑に不孝なれば去。第二、淫乱なれば去る。第三、盗心あれば去。第四、口がましく詞多き者は去。第五、悋気ふかく物妬するものは去。第六、癩病などの悪き疾あれば去。第七、子なければ去といへり。然れ共、子なきとて心正しく貞節なれば去事なし。又子を産さる女を石女といふ悋気嫉妬のふかき女は常々人を疑ひ少しの事にも怒りの念底深き故、おのずから怒りの火元気を燃やすをもつて精液涸て子なし。

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