六編

   国法の貴きを論ず

 政府は国民の代理です。そして政府はまた、国民の心の願いに従うものです。政府の仕事とは、罪のあるものを取り押さえて、罪のないものを守ることにほかなりません。

 つまり、これこそが国民のねがいです。政府が国民たちのこのおもいを達することができれば、一国のなかのものごとすべてが、いろいろとしやすくなるでしょう。

 罪のあるものとは悪人のことです。罪のないものとは善人のことです。

 悪人がやってきて善人に危害をくわえようとすれば、善人は悪人をふせがなくてはなりません。自分の父母をころそうとする悪人があらわれれば、つかまえてころしかえす。自分の財産をうばおうとする悪人がいれば、つかまえてムチをふるう。これらに、べつにさしつかえありません。

 しかし自分の力だけで複数の悪人を相手にするとなると、どうでしょう。とても罰することなどできません。たとえ悪人をつかまえることができたとしても、たくさんの費用がかかることでしょう。これでは大損です。

 ですから国民の代表者として政府をうちたてて、善人をまもる職をつとめさせるのです。そのかわりに役人たちの給料と、政府に必要なお金をうけおうと国民は約束したのです。政府は国民の代表者というわけです。

 政府がことを片付けていく権利を与えられたのなら、政府のすることは、つまり国民のすることです。ですから国民はかならず政府の法律に従わなくてはなりません。これもまた国民と政府の約束です。しかし国民が政府に従うのは、政府の作った法律に従うのではありません。自分のかまえた約束に従うのです。

 国民が法をやぶるのは、政府の作った法をやぶることではありません。自分で作った約束をやぶったことになるのです。法律をやぶるときに刑罰を受けることは、政府に罰せられているわけではありません。自分のたてた法律によって罰せられるのです。

 これをたとえてみると、国民はあたかも、ひとりで二役を演じているかのようです。さいしょのひと役は、自分の代理として政府をかかげて悪人をつかまえ、善人をまもる仕事です。もうひと役は、政府の約束をまもり、法にしたがうことでまもられる役です。

 国民は政府と約束をかわして、政府が法律で国をうごかす権利をゆずったのです。ですからまちがっても、この約束をやぶって法律をおかしてはなりません。ひとをころした人物をさばくのは政府だけの権利です。盗賊をしばって牢屋にとじこめるのも政府の権利です。裁判をとりしきるのも政府にゆるされた仕事です。街でおこった乱暴やけんかをとりおさえるのも、政府のすることです。

 これら政府がしなくてはならないことに、国民はわずかでも触れてはなりません。

 もしも自分だけの勝手な判断で罪人を殺し、盗賊をつかまえてムチで叩くようなことをすれば、国の法律をやぶったことになります。自分個人の考えだけで他人の罪を決め付けるような、私裁とでも呼ぶべきこの罪、許せません。この私裁については、西洋諸国ではとても厳重なものです。ですが外国のものはあくまで威あって猛からず(いかめしくみえるが、荒々しくはないこと。「論語」)です。わが日本でも、政府の権威はとてもたかだかしく腰をすえています。ですが、人民たちは政府のとうとさをおそれてはいるものの、政府がすすめる法律のたいせつさをしらないものが数多くいます。

 いまから私裁をやってはいけない理由と、法律が大切である理由をしめしましょう。

 あるひとの家に強盗が入ってきたとしましょう。こうなったとき、家の主人のすべきことは、政府にいいつけることです。そうして政府の対処を待てばいいのです。ですが強盗が金品をよこせといって家を荒らしているような場合は、政府に報告をするひまはないでしょう。強盗をとめようとするには、主人の命が危険にさらされることになります。やむをえず、家じゅうのものをつかって自力でふせぐことになります。とりあえずの処置として、家の柱にでもしばりつけるのです。それから政府にうったえましょう。

 強盗をつかまえる方法として、棒で打ちのめしたり、刃物を使うこともあるでしょう。そのときに強盗を傷つけることもありえます。足をたたき折ることもあるでしょう。鉄砲で射殺するかもしれません。ですがこの場合、主人は自分たちの命と家をまもるために、最低限の行動をとったまでです。けっして強盗を自分の判断で罰したのではありません。

 罪人を罰するのは政府だけがもった権利です。一般人にその権利はわずかもありません。ですから強盗をつかまえたときには、そこらを歩く人と同じ立場で扱わなくてはなりません。殺したり、叩いたりすることはもちろん、指でさわることも許されません。

 していいことは、政府に強盗が入ったと告げて、対処を待つことだけです。強盗をつかまえたとき、怒りのままに強盗をころしたり、棒で打つようなことをするのは、無罪のひとをころしたり打ったりするのとおなじことです。

 ある国の法律に「金十円を盗む者はその刑、むち一百、また足をもって人の面を蹴る者もその刑、笞一百」というのがあります。盗賊が金十円をぬすもうとするのを、家の主人がつかまえて怒りのままに盗賊の面を蹴るとしましょう。その国の法律でてらせば、盗賊は金十円をぬすんだ罰としてムチを百回こうむります。しかし主人もまた、強盗に制裁をくわえたとして、ムチを百回あたえられることでしょう。外国の法律は、これほどまでにきびしいのです。ひとびとは心から法律をおそれなくてはなりません。

 敵討かたきうちがよくない理由もこれで説明できます。自分の親を殺した人は、国の中で一人の人間を殺した、公の場所で裁かれなくてはならない罪人です。この罪人をつかまえて刑にかけるのは政府の役割です。国民が裁いてはいけません。殺された人物の子どもといえども、政府のかわりに罪人を殺す理由にはなりません。子が代わりに罪人を裁くことは、国民の分をあやまった行為です。政府との約束をやぶるおこないです。もし政府が罪人を特別扱いにして目にかけたりするようなことがあれば、不釣合いな扱いを受けたといって、政府に訴えてください。どんなことがあっても、けっして自分で手を下してはいけません。親のかたきが目の前をうろついても、自分の手で殺す理由にはなりません。

 徳川の時代に、浅野家の家臣が主人の敵を討つといって、吉良上野介きらこうずけのすけを殺した事件がありました。世に名高い赤穂浪士の話です。ひとびとは彼らを義士といって、あがめるようにさえしています。

 大間違いです。

 このときの日本の政府は、徳川です。浅野内匠頭あさのたくみのかみも上野介も、浅野家の家来も、みな日本の国民です。政府の法にしたがいその保護をうける、と約束したものたちです。

 それなのに上野介が内匠頭に不服なおこないをしたといって、内匠頭は政府にうったえでませんでした。それどころか内匠頭は怒りにまかせて、上野介を斬りました。こうして吉良と浅野のあいだで裁判がおこり、内匠頭には切腹がいいわたされたのですが、上野介にはなんのおとがめもありませんでした。たしかにこれは不正きわまりない裁判です。

 浅野家の家臣たちは、この裁判を気にいらないのであれば、なぜ政府に不服のおもいをいわなかったのでしょうか。四十七士が話しあって、法律をやぶらないままに、ただしいやりかたによって政府にうったえるのが筋です。

 このような卑しい裁判をするような政府ですから、最初は訴訟そしょうに耳を貸さないでしょう。ことによっては、うったえにきたひとをとらえて、ころすかもしれません。ですがひとりころされても恐れず、ひとりずつうったえ、とらえられてころされ、またひとりうったえ、またころされ、ついには四十七士全員が道理をもとめながら死んでいけば、いかに悪政府といっても、さいごにはかならず、死んだ彼らに頭をさげるでしょう。上野介のほうにも刑をくわえて、今後の裁判をただしくするはずです。

 このようにしてこそ、ほんとうの国の義士と言えます。

 ところが、愚かにも彼らは今のような方法をとりませんでした。国民の立場にありながら法律のつかいかたを、かんがえもしなかったのです。みだりに上野介をころしたのは、すなわち国民のあるべきをのりこえ、政府の権利をおかしたこととおなじです。個人がひとの罪をさばいたのです。

 さいわいなことに、徳川はこの越権者たちを刑で罰したから無事におさまりました。もしも彼らをゆるしていたら、吉良の一族が、敵討ちといって赤穂のひとびとに報復をくわえたことでしょう。報復をうけた赤穂の家来たちは、死んだものたちの敵討ちといって、吉良のものたちをおそうでしょう。敵討ちと敵討ちがとびかうことになります。さいごには両家の一族郎党がみな死んでしまうでしょう。無政無法の世とはこういうものをいいます。だからこそ私裁は国を害する悪事ということができます。

 むかしの日本には、百姓や町人が士族に無礼をはたらけば、自分の裁量で彼らを斬っていいという法律がありました。切捨て御免という法です。政府公認で私裁をゆるしたもので、けしからない法律です。国の法律は、政府のみがもつべきものなのです。

 法律を使う者が多ければ、ひとつひとつの権力は弱くなります。

 封建時代のころには、日本全国にちらばる三百の諸侯おのおのが、ひとの生き死にをきめる権利をもっていました。政府の法律も、そのぶんよわかったのです。

 私裁のなかでも、いちばんわるいのが暗殺です。暗殺は政治に害をなすからです。

 むかしからある暗殺の事例をみてみると、たいていは私怨やお金のためです。この二種類を動機におこなう暗殺は、もともと罪をおかす覚悟でおこないます。自分を罪人とみとめているのです。

 もうひとつ、べつのおもいを動機とした暗殺もあります。この暗殺はさきほど例にあげたような、恨みやお金のためではありません。いわゆるポリチカル・エネミ(政敵)をしりぞけるためにおこなうものです。政界に住んでいるひとは、天下のゆく道をそれぞれのひとが、べつべつの意図をめぐらせているわけです。そのなかには、個人の欲望のために他人の罪をきめ、政府の権利を横目に、好き放題にひとをころしておいて恥じないものもいます。それどころか、かえって得意にひたりさえする始末です。国民にも、だれそれに天誅てんちゅうをくわえたときけば、その行為をたたえ、報国のひとともちあげるものもいます。

 そもそも天誅とはなんでしょう。暗殺が天にかわって罰をあたえるおこないだというのでしょうか。もしもそういうつもりでしたら、まず自分の立場をかんがえなくてはなりません。この国で、政府とどんな約束をかわしたでしょう。「かならず法律をまもり、身の保護をうけます」と約束したはずです。もし政治に不満な部分をみつけたり、国を売るような人物がいるとおもうようなら、政府に報告するべきはずです。それなのに政府をさしおいて、自分が天のかわりに罰をくだすというのは、商売ちがいというものです。

 けっきょく、暗殺がよいなどといっているひとは、律儀りちぎではあるかもしれませんが、ものごとのことわりに暗いひとです。国を心配することはしっていますが、国を心配しなくてはならない理由がわかっていないのです。ですから、みてください。いまもむかしも、暗殺をつかって政治がよくなり、世のなかが幸せになったことは、いちどもありません。

 法律のたいせつさをしらないものは、政府の役人をおそれ、うわっつらではおべっかをつかいます。犯罪としてみとめられていないことでさえあれば、わるいことをしても恥におもいません。それだけではありません。たくみに法律のすきまをぬって罪をのがれるものを、まわりのひとびとはまるで英雄のようにあつかいます。

 世間のすべてのものごとには法律がまかりとおっています。

 となりの家の稲を刈ってはいけません。政府にゆるされていないアヘンなどをもちこんでもいけません。しかし、すこし悪知恵をきかせれば法律に触れることはありません。ひとのみていないところでなら稲は刈れます。警察にみつからなければ密輸もおもいのままです。この愚行を、ひとびとは公然の内緒ごとなどとうそぶきあって、ほくそえんでいます。さらには小役人と手を組んで内緒ごとをし、おたがいが暴利をむさぼっておきながら、罪を犯したことのない良民の顔をとりつくろいます。法律というものは、そのきびしさのためにわずらわしくおもわれ、邪険にされがちです。

 自分のおこないのすべてに法律をほどこされては、肩がこるようです。

 だからこそ、内緒ごとをはかって、ありえない利益をあげようとするのです。

 国の視点からみればこのような風習は、わるい習慣にほかなりません。法律を軽視する風習を生かしておいてはいけません。ひとびとは誠実でなくなり、まもらなくてはならない法律までその手にかけるようになるでしょう。

 もうすこし例をあげましょう。いまの法律では、街なかにゴミを捨ててはいけないことになっています。それなのに人民たちはみな、この禁令のたいせつさをかんがえずに、ただゴミを捨てているところを警察にみつからないことだけを心配しているのです。けっきょくは、隙さえあれば日暮れなどをみはからってゴミを捨てます。もしみつかったらおとなしくなわをもらいますが、まもらなくてはならない法律を犯したために罰せられるなどとは、かんがえもしません。心のなかでは、警察につかまったことに舌を打つだけです。なげかわしいことです。ですから政府が法律をたてるときには、法律がひとびとにまもりきれるかどうかを吟味ぎんみすることが必要でしょう。そうして法律としてさだめたからには、ひとびとはかならずその意義をだいじにし、法律をまもらなくてはなりません。

 人民たちは政府がきめた法律の一部を不便とおもったら、遠慮することなくうったえましょう。逆に法律に不快なところがみあたらず、文句のないときには、その法律をうけいれましょう。うけいれたのであるなら、どのようなことがあっても法律をまもらなくてはなりません。

 さいきん私の慶応義塾に、ちょっとしたできごとがありました。華族の大田資美君が、去年から自身のお金をつかって、アメリカ人をやとうことになりました。わが義塾の教員にするためです。

 いまも外国の教員がいるのですが、交代しなくてはならない期限がせまってきたのです。そこでべつのアメリカ人をやとうべくいろいろとさがしてみて、ぶじに新教授をつかまえました。あとは届出をすればいいだけなので、大田氏が東京府に書類を出しに行きました。このアメリカ人は文学、科学の教師にすえるぞという書面です。ところが文部省の規則には「私財でもって私塾の教師をやとってだれかを教育するばあい、その教師はこの日本の学校を卒業したものでなくてはならない」というものがありました。このアメリカ人は、ざんねんながら日本で卒業したわけではありません。語学をおしえるだけならいいらしいのですが、文学と科学の教師としてうけいれさせるのはむずかしいそうです。東京府から太田氏へそういう通達があったとのことです。

 私、福沢諭吉も、だまってみておくわけにもいきません。東京府に手紙を書いておねがいをこころみました。

「このアメリカ人の教師は、たしかに卒業の証をもちません。しかしその学力は当塾の生徒をおしえるにはじゅうぶんです。太田氏の願いの通りにしてはいただけませんでしょうか。語学の教師といつわって届け出れば、願いも済んだことでしょう。それをしなかったのは公務者をだますつもりがなかったからです」

 と、出願しましたが、私の願書はかえされました。それでも文部省の規則をかえることはできないそうです。すでに約束をとりつけていた教師を雇うことはできなくなりました。去年十二月、そのアメリカ人は国へ帰り、太田君の果たそうとした仕事も水の泡になりました。数百の生徒も、ひとりの教師をうしなってしまいました。

 一私塾の不幸だけではありません。この日本の文学をおおきくさまたげたことでしょう。ばからしく、にがにがしいことですが、国法はたいせつです。法律をどうにかするわけにはいきません。あきらめずに近日、もう一度、願い出てみるつもりです。このたびのできごとについて、太田氏や義塾の仲間たちとの会議で、とうぜんのことながらこのような話が何度もでました。

「文部省でさだめられている教師の制限も、法律がつくったもの。文学、科学の教師としょうじきに名のらず、語学教師とウソをついてとどければよかった。そうすればねがいもかんたんにとおり、生徒たちも幸せになるはずだった」

 けっきょく、このたびの件で教師は得られずに義塾の生徒たちの学力が弱まることもあるでしょう。ですが官をあざむくのは徳のある人間のすべきことではありません。つつしんで法を守り、国民の分を踏みあやまらないことを大事にしました。これはしょせん一私塾のできごとで、ささいなことかもしれません。議論としては役立つことと思い、ついでながらこのできごとを巻末にしるしました。

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