初編(2)

 さきほども触れましたが、独立も人にのみ言えることではありません。

 国家にもあてはめられます。

 わが国はアジアの東のはしにありますが、むかしから外国に国をひらかず、自国のみで自給自足してきました。ところがアメリカ人がきたとき、いまのように外国の品をとりいれたりするようになりました。この開国というできごとにはいまも議論があります。鎖国攘夷じょういとやかましいですが、彼らの視野のなんとせまいことでしょう。井のなかのかわずです。このような議論はなんの意味もなしません。

 日本も西洋諸国も、みなおなじ土のうえにあります。おなじ太陽に照らされ、おなじ月をながめ、海をともにし、空気をわかちあっています。情をしるおなじ人間ならば、わが国であまっているものは彼らにわたしましょう。逆に彼らの国であまっているものはいただきましょう。たがいにおしえあい、たがいに学びましょう。劣等感をおぼえることもなく、鼻にかかったこともせず、足らないところをおぎないあいましょう。それを感謝しましょう。

 国を越えて交友をむすびましょう。理のためにはアフリカの黒奴にも感謝するのです。道をまもるためになら、アメリカやイギリスの軍艦もおそれてはなりません。国に汚辱おじょくをかけられるときには、日本じゅうの人民がひとりのこらず命を捨てて国の威光をまもるのです。

 それでこそ国の独立がなりたちます。

 ですから清のように、わが国のほかに国など存在しない、などといった態度はいかがなものでしょうか。外国のひとをみれば夷狄いてき(外国人。⇒昔、中国で、「夷」は東方の、「狄」は北方の、未開の民を言った。岩波国語辞典 第六版)とののしり、自国の力のほどをかんがえないままに外国人をはらおうとして、かえってその夷狄にくるしめられる始末など、国の分をしらない好例です。ひとりの人間でたとえるなら、自由を手にいれようとして、わがままにおわってしまったひとです。

 大政奉還よりのち、日本の政治のやりかたはずいぶんとかわりました。そとでは外交に国際法をもちいて外国とまじわり、内では人民に独立の精神をしめしました。平民に苗字・乗馬をゆるしたことは、日本はじまって以来の大成果でしょう。士農工商の四民を平等にまとめるいしずえが、ひとびとの足もとにかたまったのです。

 これからは、日本じゅうのひとびとは身分などないとかんがえましょう。それをきめるのは、そのひとの才徳と職です。政府の官吏をぞんざいにしないのはとうぜんのことですが、それはそのひとそのものがたいせつなひとだからではありません。そのひとの才徳で職務をつとめ、国民のために、気高い国法をとりあつかうから、だいじにあつかわれるのです。

 そのひとの体がだいじなのではなく、国法がだいじなのです。

 旧幕府のころ、東海道に茶碗やツボがはこばれて行き来していたことは、みながしっていることでしょう。そこにとおる御用のタカは、御家人がおもちゃにするぐらいのものでしたが、ひとよりもたいせつでした。御用の馬には道ゆく旅人も道をゆずらなくてはなりませんでした。御用の二文字をつければ石も瓦も価値あるもののようにふるまいました。ひとは千年のむかしからこれを嫌いながらも、しぜんとそのしきたりに慣れ、うえのものも、したのものも、たがいにこの見苦しい悪習をつづけてきました。

 けっきょく、これは法が重要なのではなく、道をわたる物品がたいせつなのでもありません。ただいたずらに政府の威光をみせつけるための、ひとの自由をさまたげる卑怯な手段です。実のない空威張からいばりです。

 いまにいたっては日本のどこでも、そのようなあさましい制度は絶えました。

 もう、ひとびとは遠慮などすることはありません。政府に不満をいだいたときは、その感情をかくして陰から政府をうらむようなことがあってはいけません。解決する方法をもとめ、しかるべき方法でうったえ、議論するべきです。天理人情にかなうなら、命をなげうってでも戦うべきです。これこそ一国の人民がもつ、分というものです。

 ひとりの人間も、ひとつの国も、天からあたえられた道理のまえでは、束縛のない自由なものです。もしも国の自由をさまたげるなら、世界じゅうを敵にまわすことも、おそれてはなりません。人間ひとりの自由をさまたげるものがいれば、政府の官吏かんりだろうと遠慮することはありません。いまの時代、四民平等もなりたっています。心配することなく、理のままにことをなしましょう。

 しかしながら、ひとにはその職におうじた才覚がなくてはなりません。才をつけるには、ものごとの理をしらなくてはなりません。ものごとの理をしるには、字をしらなくてはなりません。これは学問がまっさきに片づけなくてはならない問題です。

 いま農工商であったものたちの数は百倍にもなり、士族とならぶにいたりました。この三者に才能のあるものがいれば、政府の官吏として採用されることもありえるのです。そのものたちは、自分の職をかえりみて、その職を重いものとおもい、いやしいことなどしてはなりません。

 世のなかの無知文盲もんもうの民ほどあわれな、また憎いものはありません。知恵がなければ、恥もしりません。自分の無知のせいでこまりながら、それを自分のせいとかんがえず、みだりに富んだひとを恨みます。さらには目にあまることに、徒党を組んでうったえをおこしたり、一揆いっきなどといってあばれまわるような行為にもおよびます。

 恥をしらず、法をうやまわないひとびとの典型です。

 法律にたよってその身と家をまもってもらいながら、たよれるところに甘え、また私欲のためには法をやぶる。けしからないことです。

 たしかな職で、それにふさわしい財産をもつものも、貯蓄をしりながら子に学問をおしえることをしらなかったらどうでしょう。学問をおしえられていない子孫の愚直ぶりなど、はからずともあきらかです。無駄づかいと無頼に走り、先祖がたくわえたものも煙に消してしまいます。

 このような愚民を支配するのに、言葉でおしえることは不可能です。威圧するしかありません。西洋のことわざに「愚民の上にからき政府あり」とありますが、まさにそれです。政府がきびしくなるのは愚民がみずからまねく凶事です。愚民のうえに苛き政府があるなら、逆にかんがえれば、良民のうえにはよい政府があるのです。ですからわが日本も、この人民にしてこの政治あり、なのです。もし人民の徳と情がいまよりもわるくなり、無学となるなら、政府の法律もきびしくなるべきです。人民がみな学問にはげみ、ものごとをたくさんしって、文明をたかめることができれば、政府の法律は寛大かんだいなものにかえるべきです。法律のきびしい、やさしいは人民の徳の上下にあわせて、加減をきめましょう。

 だれが圧政をこのんで良政を憎むものがいるでしょうか。国がつよくなることをねがわないものがいるでしょうか。外国の悪口を耳ざわりよくきけるものがおりましょうか。

 これはすなわち、ひとがもちつづける情というものです。

 いまに生まれ、国に報いようとする心のあるものは、心を焼くほどの気遣いをすることはありません。

 いまのべた人情にもとづいて、自分をつよくいましめ、よく学問にはげんでたくさんのものごとをしりましょう。自分たちに必要な徳と知恵をもちましょう。

 政府はその政策をしやすいよう、民は支配をうけてもくるしくならないよう、たがいに自分のするべき領分を満たすのです。そうして、ともに日本じゅうを平和にたもつことに心をくだきましょう。

 いま、私のすすめようとする学問も、この理想をのぞむために尽きます。

 端書

 このたび私の故郷、中津に学校をひらくにつき、学問にとりくむことで意志をともにした同郷の友人のために、これを書きました。あるひとがこの本を読んで、「この冊子を中津のひとびとの目にのみ触れさせるよりも、世間のすべてのひとびとが読めるようにすれば、よろこばれることでしょう」とすすめてきました。そういうわけで、慶応義塾の活版印刷ですりあげて、志をともにする仲間たちの目にとおるようにしました。

   明治四年未十二月

                                

福沢諭吉  
                                小幡篤次郎 記

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