十一編(1)

 名分をもって偽君子を生ずるの論

 第八編に、上下の立場を盾にとれば、夫婦、親子のあいだに障害が生まれる、と書きました。そして「この害がおよぶところは、夫婦や親子のあいだだけではない」とことわって八編はおわらせました。いまからこの八編をもうすこしひろげていいましょう。

 この名分ですが、そもそもどうして生まれたのでしょうか。

 つよい力でよわい力を無理に手なずけるためです。

 たしかにそうなのですが、悪意だけからこの名分が組みたてられたのではありません。上のものたちが、世のなかのひとたちを、みな愚人ではあるが気だてのいいものたちときめつけたことがはじまりです。

 ですから彼らがこまれば救い、まよえばみちびき、しらなければおしえ、たすけよう、とかんがえたのです。そのために上下をもうけて、おまえたちは頭がわるくて決断ができないのだから、上の命令はよくきけよと約束させたのです。こうすれば、ひたすらひとの命令にしたがう番犬のできあがりとなります。彼らはまちがっても自分の意見をいうことはありません。

 目上のものたちはというと、かわいい彼らのすべてのゆくさきをきめてやります。一国の方向はしっかりとかじをとり、一村の支配もゆきとどかせ、店の台帳も家の帳簿のやりくりも、上下が心をひとつにして完成させるのです。世のなかの人間のすべてを親子のかかわりのようにあたたかみのあるものにするためです。

 とつぜんですが、十歳かそこらの子どもをあつかうときの親のやっていることを説明します。

 子ども自身になにかをさせるべきではありませんから、まずは両親のはからいで衣食をあたえてやります。子どもは親の命令にそむかず、指図にしたがえばいいのです。寒いときには親が綿のはいった防寒用の着物をあたえてあげます。腹がへれば、そのころをみはからって食事の支度をしてやるのです。

 食事と着物は、あたかも天からふってくるかのようです。子どもは、自分のねがう時間に、ねがったものを手にいれて、不自由もなく家にいればいいのです。両親にとっては、わが身にもかえられない、かわいい子どものことです。子をおしえ、さとし、誉め、しかるのは、すべて親の愛情からでるものです。親子が一丸となっていて、そのすばらしさは私にはたとえようもありません。

 これこそが親子のまじわりというものです。

 彼らのあいだには上下がそなわって、うまくめぐっています。八編でも紹介した、上下の名分をかかげよ、と主張するひとはこれをねがっているのです。おもしろい工夫です。

 ですがこれはかなえがたい工夫でもあります。

 親子のかかわりというのは、知恵の熟した父母と十歳の実の子どもにだけおこなわれるべきものです。他人の子どもに、この親子の情をむけるのはむずかしいことです。それに、たとえ実の子であっても、その子が二十歳にもなれば、方法をかえなくてはなりません。

 年をかさねた他人と他人とのあいだならば、いうまでもないことでしょう。とても親子のやりかたで他人同士をむすぶことはできません。ねがいながらもかなえがたいというのは、このことです。

 さて現在、一国とか一村とか、政府とか会社とか名づけられたものがあります。これらすべての、いわゆる社会と名づけられるものには、おとなとおとなとの交際があります。他人と他人のつきあいが生まれます。

 この仲間づきあいに親子の流儀をもちいるのは、むずかしいことです。

 ですが、むずかしいこととわかっていても、もしできたのならば都合がいい、と想像したがるのは人間の常です。その想像をじっさいにほどこしてみたいとおもうのも、べつにふしぎなことでもありません。

 このおもいが名分なるものを生みます。

 その瞬間、専制政治なるものが息をはじめるわけです。

 こういうわけですから、名分はもとをただせば悪念から生じたのではありません。自分の想像を無理にかたちにしたからこうなったにすぎないのです。

 アジア諸国では、王のことを民の父母とよんでいます。人民のことを臣子または赤子せきしと名づけています。政府の仕事は牧民の職とたとえているそうです。中国では地方官のことを何州の牧といっていたころもありました。

 牧の字義は、獣類を飼う、という意味です。一州の人民を、牛や羊のようにとりあつかうつもりでいるようです。しかも公然と看板にかけています。失礼なやりかたではありませんか。

 このように人民を子どものように、牛羊のようにとりあつかう。なぜそのようなことをするのかというと、前にもいったとおり、さいしょは悪念からはからったのではありません。

 国の隅から隅までを、実の父母が実の子どもをやしなうようなようすにしたかったからです。

 王を聖なるものとさだめ、かしこく道徳のかよった臣下がその王をたすける。王も臣下も、かすかの私心もわずかの我欲もなく、清いことは水のように、まっすぐな精神は矢のように。自分の心をひろめてひとにおよぼし、民をかわいがるのに情愛をつかい、飢饉ききんには米をわけあたえ、火事に焼けだされたものには銭をあたえ、とにかくたすけ、教育して、衣食住の保障、安心をふりまく。かみのよい政治は南風のようにあたたかく、民のしたがうありさまは草のなびくかのようで、上のやわらかなさまは綿のごとく、民の無心は木石のごとく。

 上下をひとつとして、平和をうたうためのねらいです。

 天国をうつしだしたかのようです。

 ですが事実をよく吟味ぎんみしてみてください。

 政府と人民とは、べつに骨肉の縁でむすばれているわけではありません。まさに他人同士です。

 他人と他人のつきあいに情実をつかってはなりません。情実をもちいると、私情をさしいれることになり、公平な処置をほどこせないことになります。

 他人同士には、かならず規則や約束をもうけなくてはなりません。他人づきあいというものは、おたがいがわずかなことで争っているほうが、かえって丸くおさまるのです。これを円滑にするために国法が生まれました。

 しかし世のなかでは、聖明の王になれとか賢良の官が必要だとか、従順な民でなくてはならないとか、とにかくむずかしい注文をしてきます。

 どこの学校にはいれば、こんな無傷の聖賢をつくりだせるのでしょうか。どんな教育をほどこせば、こんな結構な民が生まれるのでしょうか。中国のひとは周の時代から、しきりにこれを果たそうとしてきました。ですがいまにいたるまで、いちどたりとも注文どおりにいったためしはありません。

 けっきょく、そんなことをいっているあいだに、彼らは外国人に支配されてしまいました。

 それなのに、ここからなにもまなばなかったのでしょうか。

 きかない薬をひたすら飲むかのようです。おもちゃの仁政をつかい、神ならぬ聖賢がその仁政をたすけるのです。できもしないことを押しとおし、無理矢理に恩をあたえてやろうとするのです。

 そのような恩など、ただの迷惑です。仁政も無茶な法律です。

 それでいて太平を謳おうとするのでしょうか。謳いたければ、一人で謳っていると結構です。ともに謳う者は現れないことでしょう。

 このもくろみこそ、遠まわしです。となりの国のできごとですが、腹をかかえて笑ってしまいそうです。

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