十七編(1)

 人望論

 十人が同じ人に指をさして言います。

 百人が同じ人を見て言います。

「だれそれはたしかな人物だ。たのもしい人物だ。この始末をたのんでも、必ず間違いはないだろう。この仕事をまかせても、必ずこなすだろう」と。

 このように世間から期待をかけられる人のことを、人望のある人物といいます。

 人間世界にはだれも人望の大小軽重(けいちょう)があります。仮にも、人に頼られない人物などは、いてはなりません。

 ちいさな人望をもつ人物をたとえてみましょう。

 十銭の金を持っておつかいに送られるものは、十銭だけの人望があって、十銭ぶんは人にあてにされている人物です。

 十銭より一円、一円より千円万円、何百万円もの資本金をあつめるぐらいになれば、銀行の支配人ともなります。あるいはひとつの県の知事や、長官にもなります。

 彼らぐらいになれば、ただ金銭をあずかっているのみではありません。

 人民の仕事が便利になるか、不便になるかという運命的なものもにぎります。さらには人民の貧富(ひんぷ)をあずかり、彼らの栄光や恥をもとりあつかうのです。

 こういった大任にあたるものはかならず、ふだんから人望を得て、ひとにあてにされているものでなければ、とてもこなすことはできません。

 ひとをあてにしないのは、そのひとを疑うからです。ひとをうたがえばきりがありません。

 監視役を監視するために監視役をおき、監察を監察するために監察をめいじていれば、けっきょくはなんのとりしまりにもならないことでしょう。そうして、いたずらにひとのうごきを制してしまったという奇談は、むかしからおおいものです。

 三井・大丸の商品だったら、その内容をみないままに買ってしまうのは、この銘柄(めいがら)ならばだいじょうぶだ、とおもうからです。

 曲亭馬琴(ばきん)というひとがいました。江戸のころの戯作(げさく)者で、南総里見八犬伝をつくった人物です。

 彼のつくったものなら、かならずおもしろいだろうときめつけて、表題をきくだけで注文するものもおおいのです。

 ゆえに三井・大丸(だいまる)はますます繁盛(はんじょう)し、馬琴の本はますます流行するのです。人望があれば商売にも著述にも都合がいいわけです。人望がいかにたいせつか、わかっていただけたでしょうか。

「百キロをもちあげる力のあるものには百キロの荷物をもたせ、千円ぶんの担保(たんぽ)をもっているものには千円を貸すべきだ」というときがあります。

 そういうときは人望も栄誉も無用のようにきこえます。じっさいに役だつものだけをえらんでいるようにもみえます。

 が、世のなかの人間のもちいかたは、それほどかんたんでも、淡白(たんぱく)でもありません。

 じっさいの世のなかでは、百キロの荷物がもてないものも、すわって数百キロのものをうごかすのです。千円の担保がないものでも、数十万の金をうごかすのです。

 ためしにいま、大商人の家にとびこんで、その家の帳面をみわたして、清算してみるとしましょう。

 すると、帳簿にあげられている数字よりは、数百円、数千円不足していることでしょう。

 つまり総財産がマイナスというわけです。マイナスの資産家なら、無一文の乞食にもおとります。

 それでもなお世間がこの商人をみる視線が乞食をみるときのようでないのは、どうしてでしょう。

 この商人に人望あればこそ、です。

 それならば人望はただ力量で得られるものではありません。金もちがかならずしももっているものでもありません。

 ただ、そのひとの活発な才能、知恵、そして正直な心が、この人望を積んでいったのです。

 人望が知恵と正直な心からくるのは、とうぜんのことです。

 それなのに天下古今、じっさいにはその反対の状況をみることがおおいようです。

 ヤブ医者が玄関ばかりを広くしてさかんに名を売り、薬を売るものが看板を盾に商品を売りさばきます。

 山師の帳場に意味のない金の箱をおき、学者の書斎には読めない外国の本をかざり、人力車にのっている上で新聞を読んでおきながら家に帰れば夕方に眠気をおぼえ、日曜日の午後に礼拝堂で泣くくせに月曜日の朝に夫婦喧嘩するものもいるのです。

 うつりかわりやすい天下においては、ウソもまこともまざりあい、善悪もどこにあるかわかりません。

 どれを良として、どれを悪とすべきでしょうか。

 はなはだしいことには、高い役職につく人物の不徳をうらなうものがいなくなることもあります。

 ろくでもない人物がはいりこんで政府の高官になっていても、民衆は気づかないのです。

 こういうこともあって、見識の高いひとびとのなかには、世間に栄誉をもとめないひともいます。

 人望などは浮世の虚名といって、これをさけようとするひともいるのも、しかたのない話です。

 徳のあるひとの心がけとしては、たしかに称すべき引っこみぶりです。

 ですが、世のものごとを極端にばかり突きつめていけば、弊害しかありません。

 たとえば酒のわるいところばかりをあげつらうひとがいるとします。ひたすら酒から距離をおいてしまえば、やがては酒飲みと仲よくなれなくなるのです。

 たしかに、見識の高いひとが世間の栄誉をもとめないのはほめるべきことにみえます。

 ですが栄誉をもとめる、もとめないをきめる前に、その栄誉がよいものか、わるいものかをみきわめなくてはなりません。

 その栄誉が虚名のもので、たとえば医者の玄関や薬屋の看板のようであれば、たしかにとおざけるべきです。

 すこし、べつの視点でみてみましょう。

 社会におきるできごとは、すべてが虚名ばかりではありません。

 ひとの知徳、つまり知恵と心は、木のようです。

 栄誉人望はその木にさく花のようなものです。

 知恵をもちいて心をくだけば、人望という花がさくのです。

 どうしてこれをさけようとするのでしょうか。

 栄誉ときくだけで、うけとらずに捨てるというのは、花をはらって木の場所をかくすのとおなじことです。

 花をさかせることのできる木から、花をとるわけです。

 これほど無意味なことはありません。

 木の場所をかくせば、だれかが幸福になるわけではありません。

 私はあえて、彼らの引っこみぶりが世間にあたえる影響をみて、不便利きわまりない、といわせてもらいます。

 それならば栄誉人望はもとめるべきものでしょうか。

 そのとおりです。

 つとめてこれを得ようとしなくてはなりません。

 ただ、栄誉をもとめるとき、自分のなした以上の功績をとらないようにすることがだいじです。

 心と体をつかって世間の人望をあつめるときとは、肉を切り売りして他人にわたすようなものです。

 肉を切るのがうまいひとは、三百グラムの肉を三百五十グラムにしてわたします。三百グラムを三百五十グラムといってだませば、ひとはよろこびます。商売に応用すれば、要領よく金をもうけるでしょう。

 肉を切るのがへたなひとは、三百グラムの肉を二百五十グラムにはかりだします。三百グラムを二百五十グラムといってしまえば、どうなるでしょう。

 それをみた他人はかならず「あと五十グラムたりないから、うわのせしてくれ」といいます。じっさい三百なのに、よぶんにとられるのです。いい方法ではありません。

 私がいった「自分のなした以上の功績」とは、三百グラムの肉をかくじつに三百とはかることなのです。

 肉の切り売りなら、その技術のうまさで生まれる差は、たいしたことはありません。

 才徳を切り売りするにさいしては、その差はけっしてちいさくありません。

 うまいひとは、じっさいの実力を二倍、三倍にもみせて自分を売りこむことでしょう。二倍、三倍のうわっつらにだまされる相手はあわれというものです。

 切り売りのへたなひとは、はんぶんほどにしか実力をしめせません。いろんなところで損をします。

 切り売りのうまい人物は、世間におおきな迷惑をかけるでしょう。

 憎むべきことですが、しばらくはこの切り売りのうまい人物のことはおいておきましょう。

 ここではひとまず、三百グラムを三百グラムといって売りだすひとのために、言葉をついやします。

 孔子がいいました。

「君子は人の己れを知らざるを(うれ)えず、人を知らざるを憂う」と。

 意味としては、ほんものの人物は、世間に自分のなした功績がしられていないことを憂いはしない、自分がまだまだひとのことをしらないことこそが憂いである、というものです。

 この言葉は、孔子の生きていたころ、世間にでまわっていたかんがえかたに忠告するためにいったものでしょう。

 が、のちの無気無力の()儒者(じゅしゃ)たちは、この言葉をうたがいもなく飲みこんでしまっています。

 引っこみ思案(じあん)になることにばかり心をくだき、鉄のツラをきたえ、二千年後のいまの世では立派な奇人変人が生まれるようになりました。

 まわりでも、無言にして無表情、わらうこともしらず、泣くこともしらない木の破片のような男をあがめて、おくゆかしい大先生とほめあげているのです。

 人間世界の一奇談です。

 いま、このようなあさましい風俗を洗い流すには、どうするべきでしょうか。

 活発に、たくさんのものごとにふれて、ひろく世間のひとびととまじわり、ひとをしり、ひとにしられ、かざりたてない自分のもち味をだしきって、自分のために、世のなかのためにすべきことは、何でしょうか。

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