十七編(2)

 第一

 話し言葉を学ばなくてはなりません。

 文字にしるして意思を伝えるというのは、便利な方法です。文通や著述なども、まめにこなすべきです。

 それは当然ですが、人と直接顔をあわせて、率直に思っていることを、正しく伝えるのは話し言葉のほかにはありません。

 ゆえに言葉は、なるべくうまく話せなくてはなりません。

 さいきんは演説会がもうけられるようになり、おたがいのおもいをはなつ場所が生まれました。

 演説会で自分のしらない話をきけるというのは、もとより得なことです。

 それだけではなく、自分が言葉をうまくしゃべれるように練習もできる、という利益があります。

 演説する人物も、きく人物も、それらの利益を共有できるのです。

 また、言葉のへたなひとの話をよく観察してみましょう。

 その言葉の数はとてもすくなく、なにをいっているのかよくわかりません。

 たとえば小学校の教師が、一冊の本をつかって、授業をおこなうときがあるとします。

「まるい水晶の玉」と書かれていれば、だれにもわかりきったことだとおもうのでしょうが、すこしも説明をせずにつぎの文章にすすむのです。

 ただむずかしい顔をして子どもをにらみつけて、「まるい水晶の玉」というばかりなのです。

 もしこの教師が、いいまわしに富んだ人物だったならこういうでしょう。

「まるい、とは(かど)のとれてダンゴのようなもの。水晶とは山から掘りだしてくるガラスのようなもので、山梨県からいくらでもでます。この水晶でつくった、ゴロゴロするダンゴのような玉」

 と、こう説明すれば婦人にも子どもにも、腹の底からわかるはずです。

 言語はそもそも意思を伝えるためにあるものです。その言語をもちいれずに不自由するというのは、演説をまなばなかった罪といえます。

 あるいは書生に「日本の言語は便利がわるく、単語がそれほどにおおくないために、意思など伝えられない。となると文章も演説もできたものではない。演説には英語をつかい、文章を書くさいには英文をもちいなくてはならない」などと、とるに足らないバカをいうものがいます。

 国の言葉というものは、その国にものごとがおおくなれば、どんどんふえていくものです。わずかとも不自由なものはありません。

 なにはさておき、いまの日本人は、いまの日本語をうまくつかって、言葉を上達させましょう。

 第二

 顔色、服装をととのえ、第一印象で他人にきらわれることのないようにしなくてはなりません。

 いばり散らして歩き、へつらい笑い、うわっつらの言葉、ラメいりの服を着て、タイコもちがこびるようにするのは、もとより嫌ってさけるべきです。

 ですが始終にがい顔をして、だまってほめられ、わらって損をするというのはいかがなことでしょう。

 一生胸を痛めているような顔つき、一生父母のいないことを憂えているような表情をしていることもまた、やめるべきです。

 服装をこまめにして、たのしそうな顔をするのは人間の美点というものです。ひとのまじわりで、もっともたいせつなことです。

 まずは家をひらいて入り口をそうじして、とにかく寄りつきやすいようにするのがだいじです。

 それなのに、顔色をあたたかくすることに意識をそそがないだけではなく、暗い顔をして、うまい言葉を吐かず、古代の大先生ぶっているひとがいます。

 これをしているひとは、自分を善人とおもっているのです。

 自分では善人のつもりでも、あたりからみればそれは偽善者というものです。

 ことさらにしぶい顔をしているというのは、家の入り口にガイコツをぶらさげるようなものです。玄関に棺おけをおいているようなものです。

 だれがこれにちかづくでしょうか。

 世界じゅうのひとびとが、フランスを文明のおこった地といい、知識の中心とたたえるのも、国民がつねに活発気軽で話しかけやすく、話しぶりも顔だちも親しみやすいからです。

 ひとがいいます。

「言語容貌(ようぼう)はひとの感情と似たようなもので、意思の力でどうこうすることはできない。怒れば顔が曲がり、よろこべば顔がほころぶのとおなじもの、ということだ。よろこんでもいないのによろこぶなど、無理な相談だ。無口な人物に、つぎの日には口数がおおくなれなど、まるで人格をかえろといっているようなものだ」と。

 この言葉も、まんざらまちがいではありません。

 ですが人知がそだつときをかんがえてみれば、それほどあたってもいません。

 感情は、すすめようとすればすすむものなのです。

 それは人間が手足をつかえば腕の筋肉、足の筋肉がつくのとおなじことです。

 言語容貌も、ととのえようと意識さえしていれば、しぜんと上達してくるのです。逆にほったらかしにしておけば上達もありえません。

 それなのに古来から日本の習慣として、このたいせつな言語容貌は早くから捨てられてしまったのです。おおきなまちがいをしでかした、といえないでしょうか。

 私は、きょうから言語容貌を学問にとりいれるべきだ、などといっているわけではありません。

 言語容貌を人間に必要なものとしてとりたててやり、おろそかにすることなく、つねに心にとどめておいてほしいだけです。

 あるひとがまたいいました。

「容貌をよくする、というのはうわっつらをかざるということだ。うわっつらをかざるのを人間どうしのまじわりの(かなめ)とするのはいかがなものか。ただ顔色容貌だけでなく、衣服もかざり、食べものも豪華にし、気に食わない客でも招待して、身分不相応のごちそうをあたえろ、というのか。かたちばかりのまじわりで、そんなことが世間にあふれることになる」と。

 この言葉にもまた一理あります。

 しかし虚飾(きょしょく)はしょせん虚飾です。ほんもののまじわりではありません。

 ものごとの弊害というのは、まずまちがいなく本色とは正反対のものというわけです。

 孔子の言葉に「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」というものがあります。ものごとをやりすぎるということは、ものごとを中途半端にすることとかわりない、という意味です。

 この言葉もまた、弊害と本色とはちがうものだ、といっているわけです。

 たとえば食べものとは、体をそだて、健康を守るものですが、食べすぎればかえって体をこわします。

 栄養は体の本色です。食べすぎはその弊害です。

 弊害と本色とは正反対というものです。

 ひとびとの仲間にはいるときにだいじなのは、素直でだますところがない心です。うわっつらの態度などは、ほんものの交際ではありません。

 世のなかにおいて、夫婦や親子ほど親しいものはいません。

 これを愛情といいます。

 こうして夫婦親子の愛情をはぐくませているのはなんでしょう。

 だますようなこともない、かざりたてることもない、素直な心が生んでいるのです。

 表面のうわっつらを捨ててみましょう。または払ってみましょう。

 そうしてみると、はじめて夫婦親子のようなものが生まれるのをみることでしょう。

 それならばすなわち他人と親しさを深めるときは、ひたすら素直であるべきです。

 虚飾などはあってはならないものです。

 私は、いまの人民に、交際を親子のように仲むつまじくしろ、といっているのではありません。ゆくべき方向をしめしているにすぎないのです。

 世間でいわれている、他人が他人を評する言葉を耳にしてみると、だいたいこういうふうです。

 あのひとは気軽に話しかけやすいひとだとか、あのひとは気をつかわなくていいひとだとか、遠慮のないひとだとか、さっぱりしたひとだとか、男らしいひとだとか、口数はおおいがいいやつだとか、うるさいけれど憎くはないひとだとか、無言ではあるけれども親切なひとだとか、こわいようだけれどもあっさりしたひとだとか、他人を評する話にはいろいろなものがあることをしるでしょう。

 こういうふうにほめられているひとは、家族どうしのまじわりを表にたてて、素直にうごいているひとです。

 第三

 「道おなじからざれば(あい)ともに(はか)らず」という語が孔子の言葉にあります。主義のちがうひととは話しあってもわかりあえない、という意味です。

 世のひとびとは、このおしえの意味を誤解しているようです。

 かんがえかたがちがい、目指すものが敵対するのなら、わかりあえないかもしれません。

 ですが職業がちがう、目指すものがすこしちがっているていどで、敵対するのはどういうことでしょうか。

 学者は学者としかつきあわず、医者は医者にしか友人はいないのです。すこしでも職がちがえば、おたがいがちかづくことはしません。

 同世代、同学年、おなじ学校のものでも卒業したあと、ひとりは町人に、ひとりは役人になれば、敵どうしのようににらみあうという話もないわけではありません。

 はなはだしい無分別(ふんべつ)です。

 ひととまじわっていたいのならば、むかしの友をわすれないだけではなりません。その上であたらしい友をさがすのです。

 人類がよく顔をつきあわせて心を尽くすことがなければどうなるでしょう。

 心を尽くさなければ、相手のことをしることなどできません。

 ためしに、かんがえてみてください。

 良識のあるひとびとは、わずかなぐうぜんで、一生の親友をみつけることがあるでしょう。

 十人にあえばひとりのぐうぜんにあたるのなら、二十人に接してみて、ふたりのぐうぜんをみつけるのです。

 ひとをしり、ひとにしられる。

 そのはじまりは、こういうおこないがよぶのです。

 人望栄誉だとかいう話はすこしおいて、いまの世間で、友人がおおいというのはなにかと都合のいい話ではないでしょうか。

 昨年神社におもむくとちゅうで同船したひとを、きょう銀座でみかけて、声をかけてみるといい話をきけることもあります。

 今年から野菜をもってきてくれる八百屋(やおや)と仲よくやっていれば、来年はどこかの旅館で腹痛の手当てをしてくれることもあるでしょう。

 人類はおおいとはいえ、鬼でもヘビでもありません。ことさらに害をあたえてやろうとする敵はそうそういません。

 おそれてさけることもなく、心のなかをあけっぴろげにして、さっさっと対応してやるのです。

 まじわりを広くするのなら、この心をなるべくひろげればいいのです。つまり、たくさんの趣味を、たくさんの技能をもつのです。

 あるひとには学問をもって議論の場で友情を深めるのです。あるいは商売のやりかたを交換しあって友情を深めるのです。あるいは書画をもって友人を得てもいいですし、あるいは()将棋(しょうぎ)の相手をさがすのもいいかもしれません。

 あそびすぎ、金の無駄づかいなどに走らなければ、友人を増やす方法をえらぶ必要はありません。

 どうしても、技能も趣味もないというひとでしたら、ともに食事をとればいいでしょう。お茶をともにするのもいいでしょう。

 筋肉に自信があるならば、腕ずもう、足ずもうもまじわりにつかうのです。

 腕ずもうと学問とは「道おなじからずして(あい)ために(はか)らない」ようですが、世界の土地は広いものです。人間の交際はそこらにあるものです。

 世界のありさまというのは、三、五()のフナが井戸のなかに引っこんでいるのとは、まったくちがいます。

 人にして人を毛嫌いすることなどないように。