十三編(1)

 怨望(えんぼう)の人間に害あるを論ず

 人間というものは、悪い感情の多い生物です。それらの中で、人付き合いに邪魔なのは怨望、すなわち恨みの思いと言えます。

 ケチ、ぜいたく、悪口も悪い感情に見えますが、よくながめてみると、それほど責められるものでもありません。

 ケチの心を少し弱めてみれば、無駄金を使わない節約の精神になります。

 ぜいたくも少し弱めると、息ぬきのためのものです。

 悪口もやわらかくしてみると、忠告の心にかわります。

 ケチ、ぜいたく、悪口は、ほどこすべき場所と強弱をわきまえれば、不徳のそしりをまぬがれることができるのです。

 もう少し意味を広めてみましょう。

 金をこのんで飽きることを知らず、ひたすら金を使わずにいることをケチといいます。ですが、金をこのむのは人間にそなわった思いです。その欲のままに満足を得ようとするのは、とがめるほどのものではありません。

 ただ、銭を好むあまりに、払うべきときにまで金を払わないという人は、ケチの不徳だと名指ししてもいいでしょう。

 金を手離したくない、と誰かが口にするのを聞いただけで、その人をただちにケチと決めつけるのはいけません。

 このケチというものは、どこまでが美徳か、どこからが不徳と指さすべきか、その境界ははっきりとしています。境界の中にあれば節約とか、経済といいます。

 よくわきまえられたケチの心は、まさに人間が努力するべき美徳のひとつです。

 ぜいたくもまた、同じことです。

 働いた量と質にふさわしいかどうかで、徳不徳を決めればいいのです。

 きれいな、あたたかい服を着て、大きな家にいたいと思うのは人間の夢でもあります。天理にしたがってこの夢を満たそうとするのに、どうしてこれを不徳と名づけるのでしょうか。

 金を貯めてよく使い、使いながらぜいたくしすぎなければ、それは人間の美事というべきものです。

 次に、悪口です。

 人をおとしめようとするのを悪口といい、進歩をねがってするものを忠告といいます。

 この二つですが、簡単に境界を引いていいものではありません。

 人々の議論がはじけて、まだ真実をさだめられていない場合は、どれが悪口で、どれが忠告かを決めこむべきではないからです。

 是非が決まらない間は、とりあえずは世界じゅうの人々の、賛成の多いほうを選んでおきましょう。

 が、この世界じゅうの人々の賛成の数というものを明白に知るのは難しいことです。

 ゆえに他人に手きびしく注文をつけるものをみるや、ただちに不徳者と指さしてもいけません。

 悪口か忠告か、区別するためには世界の言葉に耳を向けなくてはならないのです。

 このほか傲慢(ごうまん)と勇敢と、粗野と率直と、ガンコと強さと、軽薄(けいはく)と鋭敏というふうに、相対するものはたくさんあります。

 いずれも、心の働きの場所、強弱の度合い、その心の使いどころによって、不徳にもなれば徳にもなるものたちです。

 ただひとつ、根本から間違っていて、どうしようもなく不徳の感情があります。

 それこそ怨望、憎しみの心です。

 他人の持つ何かと自分を見比べたときに、不平をいだかせる感情です。

 憎しみというものは、自分を進歩させるものではありません。

 この不平は、自分をかえりみずに相手をおとしめてやろうという思いになります。

 たとえばある不幸な男のそばに、幸せな他人がいたとします。

 男は不幸から脱出するよう努力しなくてはいけません。ところが男は、他人を不幸におとしいれることで、自分とその他人の幸福度を同等にしようとするのです。

 いわゆる憎めば死を願うとは、このことです。

 こういう連中の不平を満足させるということは、世間すべての幸福をおとしめることになります。少しも有益なことはありません。

 ある人がいいました。

「だましたり、ウソをついたりというのも悪事だ。このウソつきの思いを憎しみよりも罪の軽いものだとはいえない」と。

 まことに、もっとものようです。

 が、原因と結果をよく区別してみると、罪の重さに違いがない、などとは言うことはできません。

 ウソやだます行為はたしかに大悪事です。が、これにはそもそも原因があります。

 多くは憎しみが、ウソをつかせたり人をだましたりする行為を呼ぶのです。

 憎しみがウソを呼んだのです。

 憎しみはあたかもすべての悪事の巣とさえ言えます。

 人間のすべての悪事は憎しみが起こすのです。

 人を信じようとしない猜疑(さいぎ)心、人の功をねたむ嫉妬(しっと)心、敵視している相手が力をつけると恐怖(きょうふ)心、敵視する相手をおとしめるのに卑怯(ひきょう)心。

 みな憎しみから生まれたものです。まだあります。

 個人同士の関わり合いにそれが現れるのは、私語、密談、内談、秘計です。

 大きな行動となって現れるのは、徒党、暗殺、一揆(いっき)、内乱です。

 これらはかすかにも国にいいことをもたらしません。災いのみを全国に広げてしまうのです。この被害を、誰一人といえども、まぬがれることはできません。これらは公共の金、他人の金を使って、わが心を満足させる、あくどいやりかたです。

 憎しみが社会に害のあることは、こういう理由によります。

 こんなことになる原因をたずねてみましょう。

 それはただひとつ、(きゅう)の一文字で答えられます。

 ただしこの窮というのは、困窮や貧窮(ひんきゅう)をさしているのではありません。人の言葉、人の行動をさまたげる、という意味です。

 貧窮、困窮を憎しみの源とするならば、天下の貧民は残らず不平をうったえていることでしょう。富貴(ふき)はあたかも憎しみの(まと)のようです。

 そうなると世界は一日ももたないはずですが、こんなことは起こっていません。

 どんなに貧しい者でも、自分がどうして貧しいのかを知っています。彼らは貧しいのが自分の身からやってきたことを了解していて、けっしてみだりに他人を恨んではいません。その証拠をことさらに詳しくかかげることもないでしょう。

 いま世界じゅうに貧富(ひんぷ)貴賎(きせん)の差がありますが、よく人間同士の関わりはたもたれています。

 富貴は恨みの温床(おんしょう)ではなく、貧賎は不平の源ではないわけです。

 憎しみは貧乏が生むわけではありません。ただ人類の心を頭ごなしにふさいでやろうというおこないが、この憎しみを生んだのです。

 むかし孔子がこのようなことを、ため息とともに、もらしました。

「女子と小人(しょうにん)とは近づけがたいものだ。さてさて困ったものだ」と。

 この言葉は孔子が何かをしようとしたとき、女子と小人に邪魔されて、そのときに思った言葉だといえましょう。

 人の心は、男も女もかわる理屈などありません。また、小人とは召使や身分の低いもののことを言っているのでしょうか。小人の腹から生まれたものは、かならず小人となるときまったわけではありません。

 小人も貴人も、生まれ落ちれば心がそなわっています。これに誰かの同意をもとめる必要はないでしょう。

 それなのに女子と小人とにかぎって困るとは、どういうことでしょうか。

 ふだんから卑屈になるよう人民に教えることで、婦人、小人は縛りつけられていました。

 そうなると、婦人も小人も、わずかなりとも自由なことができなくなり、ついに憎しみの心をいだいてしまったのです。そして世間に、女子、小人が悪いことをする、という気風も生まれてしまいました。

 そのしっぺがえしを受けた孔子さまが、嘆息たんそくしたというわけです。

 もとより、人の性質として、やることなすことに自由を得ていれば、他人を憎むはずはありません。

 因果応報(いんがおうほう)とは、自分のやったことがめぐりめぐって、自分に返ってくる、という意味です。それは麦の種をまけば、麦がそこから生えてくるということが証明していると言えます。

 聖人の名を得た孔子が、この理屈にも気づかないまま愚痴をこぼすとは、あまりにも頼りない話です。

 そもそも孔子の生きていた時代は、明治からはるか二千年も昔、野蛮が風を吹かせるころでした。教えの内容も、その野蛮時代の風俗人情にしたがっているのです。

 となると天下の人心をたもつために、不徳と知りながら人間を縛る方法を取らなくてはなりません。

 もし孔子が本物の聖人で、はるか未来を洞察することもできたなら、野蛮時代の理屈を今に用いることで満足するはずはありません。

 ゆえに、いま孔子の教えを学ぶものは、今の時代にちなんだ道理を足して、孔子の言ったことを取捨しなくてはなりません。

 二千年前の教えを丸暗記しただけの人物が、今の明治の物事に口出しするべきではないわけです。

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