十三編(2)

 もうひとつ例をあげましょう。もっともはなはだしい例です。

 わが国には封建時代、たくさんの大名がおりました。その大名の屋敷、いわゆる御殿(ごでん)には、やはりたくさんの女中がいました。

 御殿とはどんなところだったのでしょうか。

 無識無学の女が群居(ぐんきょ)して、無知無徳の一主人につかえるところです。

 彼女たちは勉強をしてもほめられることはありません。だらけて暮らしていても罰せられることもありません。ひとを注意してしかられることはありますが、注意せずにしかられることもあります。言うもよし、言わなくもよし、いつわるも悪く、いつわらないのも悪いのです。

 ただ朝夕の臨機応変(りんきおうへん)だけで主人の愛を浴びているのです。

 あたかも的のないところに弓を撃つかのようです。当たっても名手ではなく、当たらなくても下手ではないのです。まさにこれは人間外の一世界といってもいいでしょう。

 このゆがんだ世界に住んでいれば、喜怒哀楽(きどあいらく)の性質もかならずかわり、ほかの人間世界とも理屈がかわってきます。

 たまたまこの御殿の女のなかに、出世するものがいたとしましょう。ほかの女たちが、出世の方法をみいだすことができなければ、ただ出世の女をうらやむのみです。

 うらやむだけでは終わりません。

 うらやむあまりに、ねたむのです。

 出世の女を妬み、拾いあげた主人を憎むのです。

 こんなことばかり考えていて忙しい彼女たちが、お家のことを思う暇などないでしょう。忠信、やわらかい表情、言葉などは表向きのあいさつだけです。

 その実はというと、畳に油をこぼしても、人がみていなければ拭きもせずほったらかしです。

 はなはだしいのは、主人が一命にかかわる病気にかかったときも、女どうしでにらみあうことに集中し、看病してやらないこともあることです。

 御殿の中での毒殺の話もまれではありません。

 もしこの大悪事の数をかぞえた統計表でもあれば、御殿でおこなわれた毒殺の数と、世間でおこなわれた毒殺の数とを見比べることができるでしょう。そのとき、御殿での毒殺の多いことが明確にわかるはずです。

 憎しみの起こす災い、これで証明できたことでしょう。

 この御殿の例をみることで、世のなかのありさまはいうまでもないことでしょう。毒殺とまではいかないものの、このような暗い話はそこらにみえます。

 世間において、最大のじゃまものは憎しみです。

 憎しみの源が、さきほどいった「窮」から生まれるのならば、ちゃんとひとの言葉を発する場所がなくてはなりません。ひとのうごきをさまたげないようにしなくてはなりません。

 こころみにイギリスやアメリカと、日本のありさまをくらべてみましょう。

 おたがいの社会で、どちらが「窮」による憎しみを払うことができているでしょう。

 私はいまの日本をみて、まったくもって日本国じゅう御殿のようだ、というわけではありません。ですが日本はどこにもかしこにも、御殿の風習がのこっているといわざるを得ません。

 イギリス、アメリカの人民には、ケチで鼻もちならないものがいないわけではありません。粗野で乱暴でないわけでもありません。ウソをつき、詐欺をはたらくものもいます。風俗はけっしてうつくしくありません。

 が、怨望、つまり憎しみのこととなると、わが国とすこしちがったことになります。

 いま世の識者たちのあいだで、民選議院を設立しようという話がもちあがり、ほかにも出版自由の運動もおこっています。(このころ、本を出版するのは政府から免許をもらわなければできなかった。)

 この議論の内容はおいておくとして、もともとこんな話がささやかれるようになった理由をかんがえてみましょう。

 日本じゅうにしみわたる、御殿(ごでん)の空気を洗い流すためです。

 憎しみをはらって行動をおこすよううながし、嫉妬(しっと)を断って競争する心をそだて、幸福、わざわい、どちらも自分自身の手でえらばせるようにするためです。幸福になるのも自分の力のたまもの、不幸になるのも自分の無力の責任になるような世にするためです。

 人民の主張をとりおさえ、運動をさせないようにしてきたのは、おもに政府です。

 ですがこの御殿病は、政府にのみただよう病気でもありません。

 人民にも流行しているのです。

 ですから、政治のみを改革するのみで原因をとりはらったつもりでいるべきではありません。いままたいくつか例をあげることで、この編の巻末としましょう。

 元来ひとはまじわりをこのむものですが、日々の習慣にもよれば、社会にとけることをいやがる場合もあります。

 奇人変人といいますが、ことさらに山村にこもって世間をさけるものがいます。

 これを隠者(いんじゃ)ともいいます。

 あるいは隠者でなくとも、世間のつきあいをこのまずに家にこもっているものもいます。俗世(ぞくせ)の空気にふれないですむ、といってひとりいい気になっているのです。

 彼らの意図をよくながめてみると、かならずしも政府のやりかたが気に食わなくて家に引っこんでいるのではないようです。

 その心がぜいじゃくで、ものにさわる勇気がないのです。心もせまく、ひとをつつむこともできません。

 他人をいれることができなければ、他人もまた心をゆるすことはありません。

 こちらが一歩しりぞけば、あちらも一歩さがります。やがてははるかな距離となり、別世界の住人同士のようになります。

 そうなれば、さいごには親の敵のように憎みあうことでしょう。世のなかに大なるわざわいとなることはまぬがれません。

 自分のしらないところで、だれかが、なにかをなしとげたとしましょう。もしくは、だれかがしゃべった言葉を遠方からつたえきいたとしましょう。

 その行動のなかに、その言葉のなかに、すこしでも自分の意思にそぐわない部分があると、まず同情や共感をおぼえることはないでしょう。かえって忌み嫌うのです。

 ついには憎み、すぎたおこないにおよぶという話はよく耳にします。

 これもまたひとの天性のものとして、とうぜんの反応です。

 ものごとを丸くおさめるのに、伝言、文通でうまくいかない場合も、直接顔をみて話せば、よくまとまることもあります。ひとの常にいうところですが「彼のうわさをきいてイヤなやつだとおもったが、話してみると、よくできたやつだった」ということもあります。

 すなわちこれは、人類のそなえた情、堪忍(かんにん)の心というものです。

 堪忍の心がわけば心がつうじ、憎しみと嫉妬はたちまち消えることでしょう。

 古今、暗殺の例はたくさんありますが、私はいつもいっていることがあります。

「もし好機会がめぐってきて、ころそうとするものところされるものを、数日のあいだ、おなじ部屋にとじこめ、たがいに本音を打ちあけあえば、どんな憎い敵も、かならずゆるしあう。それだけではない。あるいは無二の親友にもなるだろう」と。

 この理由をながめてみれば、ひとのいいたい言葉をふさいで、ひとのしたいことをふせぐのは政府のみがやっていることではありません。

 全国人民のあいだにただようもので、学者(勉強をするもの)といえども、まぬがれることができていないものもいます。

 活発で生き生きした人生は、ものにふれなければ生まれません。

 自由にいわせましょう。自由にはたらかせましょう。金持ちになるも貧乏人におちるも、ただ本人の努力次第で、みずからがつかみとれるようにし、ほかのものがこれをじゃましてはなりません。

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