十五編(2)

 西洋人は毎日風呂に入り、日本人は月に一度しか風呂に入らない。

「文明開化の西洋人はよく風呂にはいって皮膚のよごれを毎日細かく落とすことで、体をきれいにたもっている。が、不文明の日本人はこのような衛生観念を持ちあわせていない」

 日本人は枕もとに尿瓶(しびん)をおいてこの頭のちかくに尿をたくわえながら寝る。あるいは便所からでても手を洗わない。

 西洋人は真夜中であっても便所に行きたくなれば起きて便所に歩き、どんなに疲れていても手を洗う、としましょう。

 これを論者は、

「文明開化のひとは清潔をとうとぶが、不文明の日本人は不潔の意味をしらない。子どもでたとえるならば、知識がいまだ発達していないから、きれい、きたない、といったことがかんがえられないのとおなじだ。こんな人民でも、しだいに文明が高まれば、西洋にならうことで手を洗うようになるだろう」と評します。

 西洋人は鼻をかむのに、そのたびに紙をつかって、つかえばただちに捨てる。だが日本人は紙のかわりにハンカチをつかい、つかえば洗濯し、なんどもおなじものをもちいる。

 これをきいた論者は、トンチをめぐらせて、経済論にまでおよんでいうでしょう。

「紙をつくるには木がいる。日本は国土がせまいから、その木がすくないわけだ。だからしらないうちに紙を無駄づかいしないように節約しているのである。日本人がみな西洋人のように鼻紙をもちいれば、国の財産がいくらかへることになる。日本人はよく不潔を耐えてハンカチですませているものだ」

 日本の女性が、おのれの耳に穴をあけて純金のピアスをつけ、コルセットというものをもちいて、腰に無理にくびれをだす。

 論者は解剖(かいぼう)学の話をもちだして、悪口まじりにいうことでしょう。

「はなはだしいことだ、未開の日本人め。人間の体はしぜんのまま、ありのままそだつのがふつうというのに、そのふつうのこともわからない。ことさらに自分の体を傷つけて、耳に荷物をかけ、婦人の体でもっとも重要な下腹部をおさえ、ハチのような腰にして得意になっている。妊娠(にんしん)のときにあぶないだけである。一家に流産(りゅうざん)という不幸をおこし、全国では子どもが生まれないという不幸がおこるのだ」

 西洋人は外出のさい家に鍵をしめてでることがない。旅のとちゅうにつかまえた人足に荷物をもたせた場合も、その荷物に鍵をかけなくとも、ものをぬすまれることがない。あるいは大工などの職人に命じて建築をたのむときも、ちゃんとした契約書を書かなくても、そのことで裁判がおこることもない。

 が、日本人はというと、家の一室ひとつひとつにまで鍵をとりつけ、さらには箱にまで鍵をかける。建築をたのむさいには、一字一句のこさず契約書に書かせる。そうしていながら、そこらで盗みがおきる。あるいは契約書とちがうことがおこったといって裁判をたてる。

 これについても、論者はため息まじりにいうことでしょう。

「キリスト教とはありがたいものだ。気の毒なのは仏教を信じる異教徒たちだ。日本人はまるで盗賊と住んでいるようでさえある。この低文化を西洋諸国のもつ自由の心、正直さとくらべるのはおこがましい。

 キリスト教のおこなわれている土地こそ、理想の世界というものだ」

 日本人が()みたばこを口にふくみ、たばこをくわえ、西洋人がきせるをもちいれば「日本人はきせるをつかおうという能がなく、いまだにきせるの発明もない」というでしょう。

 日本人が靴をはいて西洋人がゲタをつかうなら「日本人は足の指をどうやってつかうかしらないのだ」といいます。

 味噌(みそ)も外国製品ならば、これほどまでに軽蔑(けいべつ)もされなかったでしょう。

 豆腐が西洋人のテーブルにのぼれば、その名声がさらに高まるでしょう。

 うなぎのカバ焼き、茶わん蒸しを西洋人がうまそうに食べるのをみれば、世界一のごちそうともてはやすのです。

 こういった例をあげていたら、きりがありません。

 もうすこし話をすすめて、こんどは宗教のことでたとえてみましょう。

 むかし、西洋で親鸞(しんらん)というひとが生まれたとします。ひるがえって日本では、マルチン・ルターもおなじころに生まれました。

 ちなみに親鸞というひとは千二百年ごろ、浄土真宗というものをつくり、悪人正機というかんがえをひろめたひとです。悪人正機とは、悪人こそがたすけられるべきひとびとだ、というかんがえかたです。

 マルチン・ルターは千五百年ごろ、ドイツの国でプロテスタントという新宗教をおこしたひとです。

 話をたとえ話にもどします。

 親鸞(しんらん)は西洋世界を支配する仏法をあらため、浄土真宗をつくりました。ルターは日本のローマ教会に反対して、プロテスタントをひらきました。

 こうなったとしたら、論者はかならずこういうことでしょう。

「宗教の目的とは、ひとびとをくるしみから解きはなち、悟りをひらかせることにある。もちろん、ひとをころしてはならない。

 この目的をふみはずせば、その被害はみられたものではなくなる。西洋に住む親鸞(しんらん)はよくこの目的にふみとどまった。大地に寝そべり石を枕にし、くるしみをこらえたあげく、ついにその国の宗教をかえてしまった。

 いまにいたれば、親鸞のおしえは西洋人すべての心をゆたかにしている。

 親鸞のなしたことは、それほどひろく西洋人をつつんだ。親鸞が死んだのちも、その弟子たちはおしえに従順だから、ほかの宗教のひとをころしたことはない。だからころされたこともない。

 宗教をもって西洋人の心をのこらず平穏(へいおん)にしたのだ。

 が、日本ではどうか。

 ルターはたしかにローマ教会に一撃をくわえた。が、ローマはこのていどでは屈さなかった。

 ローマの旧教カトリックは健全のままだが、ルターのおこした新教プロテスタントもつよくなった。

 カトリックが虎なら、プロテスタントは狼のようだ。

 やがて虎狼がぶつかり血を流し、食肉流血をくりひろげた。ルターが死ぬと、宗教のために日本の人民をころし、日本の財産をへらし、戦争をおこして国をほろぼした。

 その悲惨なありさまは、筆でしめすことなどかなわない。口で表現することもできはしない。

 なんと殺伐としたことか、日本人。

 ルターもまた、ひとびとをくるしみから解きはなつという、親鸞とおなじ目的をもっていた。

 そのプロテスタントの、ひとびとのくるしみをはなつというおこないが、人間の体を焼いた。敵を愛せ、というキリストの甘言(かんげん)にしたがって自分の仲間をころしていった。

 いまにいたって、プロテスタントのしてきたことを評価するならば、ルターの新教はいまだ日本人を平穏(へいおん)におちつけることができていない。

 東西の宗教、どちらが目的をとげたか、どちらがとげていないか。結果はこれをみてあきらかといえる。

 私はこのことにうたがいをいれてひさしいものだが、いまだにその原因をみつけることができないでいる。

 ひそかにおもっているのは、日本のキリスト教も、西洋の仏教も、その性質はおなじでも、野蛮(やばん)の国でおこなわれれば、おのずと殺伐になるのかもしれない。文明の国でおこなわれればおのずと温厚にむかえられるのかもしれない。

 あるいは東方のキリスト教と西方の仏教とでは、もともと種類がちがうのかもしれない。

 あるいは改革の始祖(しそ)ルターと親鸞(しんらん)とでは、もっている心の深さ、つよさがちがったのかもしれない。

 みだりに憶測(おくそく)をとばすこともできない。ただのちの世の博識(はくしき)な人物の言葉を待ちたい」

 と。

 いまの改革者は、日本の旧習をいやがって西洋のつくったものを信じたわけです。

 昔の権威を信じていたものが、いまの西洋文明に強い権威をおぼえ、信じてしまったのです。

 そうして西洋を慕うあまりに、その朝寝の癖まで真似てしまいました。

 はなはだしいことには、西洋文明をみたこともきいたこともないものまでが、話にきいただけの西洋文明にほれることです。その人物たちは、とりあえず旧時代のかんがえかたを捨て去ってしまいました。が、その心に西洋のかんがえかたがあるわけではありません。そのくせに日本古来のかんがえかたもないのです。

 その心には無があるのみで、信じるものがなにもないありさまです。

 信じるもののない人間は、ぜいじゃくです。

 ついには心がおちつかなくなり、このためについに発狂するものもあらわれています。あわれむべきではないでしょうか(医者の話をきくと、さいきんは神経病や発狂の病人がおおいといいます)。

 西洋の文明は、もとより慕うべきものです。

 これを慕い、これをまなんでやろうとして、まだ日があさいものといえます。

 とはいえ、軽々しく西洋を信じておどるぐらいならば、信じないほうがまだマシです。

 西洋の国の強さのほどは、ほんとうにうらやましいかぎりです。が、その国の人民の貧富の格差までならってはいけません。

 日本の税法はやさしいものではありませんが、イギリスの国民が地主にしいたげられるありさまをおもえば、わが国の農民のほうをいわいたくなります。

 西洋諸国で女性を重んじることは人間世界のすばらしい成果です。ですが金のつかいかたもしらない妻が幅をきかせ、ひとびとをくるしめるのはいかがでしょう。不良娘が父母を軽蔑(けいべつ)してみにくいおこないにおよぶことも、わが国のひとびとは酔ってはなりません。

 いまの日本におこなわれる処置は、果たしてただしいものでしょうか。

 商売会社が、いまのままでいいのでしょうか。

 政府のやりかたがいまのままでいいのでしょうか。

 教育制度はいまのままでいいのでしょうか。

 世間でもてはやされている、本などの著作の内容は、いまのままでいいのでしょうか。

 それだけではありません。

 いま私のやっている学問のしかたも、ほかのひとびとがやりかたを真似していていいのでしょうか。

 これをおもうと、かぞえきれないほどのうたがいが生まれます。真実をさがす、ということは、闇のなかにあるのです。

 こんな混乱した世のなかで、よく東西の文化文明を比較して、信じるべきところを信じ、うたがうべきところをうたがい、とるべきところをとり、捨てるべきところを捨て、信疑取捨、ただしいものをそろえるのは、むずかしいことではないでしょうか。

 いまこのようなことができるのは、ただわが慶応義塾で学問をしているものたちのみです。

 学問をつとめているのならば、努力しなくてはなりません。

 かんがえているだけでは、まなぶことにとおくおよびません。

 幾多の本を読み、幾多のものごとに肌で接し、先入観など捨て、ありのままにうけいれ、ものごとの道理を確実につらぬくのです。

 こうして真実をさがしていれば、信疑がはっきりみえてきます。

 きのう信じていたものに、きょうは疑念が生まれます。

 きょうの疑念は、あしたには氷解することもあるでしょう。

 学問する身ならば努力しないわけにはいきません。

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