十六編(1)

 手近く独立を守ること

 しばられることなく自由で、だれの力も借りず独立する、という話は、さいきんはよく世間でうたわれるようになりました。

 が、世のなかのその話にはずいぶんとまちがいがおおいようです。

 おのおので、よく独立という意味をわかっていなくてはなりません。

 独立には二種類があります。

 ひとつは、かたちにみえるものです。いわゆる有形です。

 もうひとつは、かたちがないためにみえないものです。つまり無形です。

 わかりやすくいうなら、品物についての独立と、精神についての独立と、二種類にわけられるわけです。

 品物についての独立とは、たとえやすいものです。ひとびとがおのおの、結婚したり家をかまえたり、仕事をはじめたりして、そうして他人の世話にならないことをいいます。自分の身、自分の家のことをこなすことで、ひと口にいえば、ひとにものをもらわない、という意味です。

 かたちのある独立、つまり有形の独立は、いまいったように、目にみえるものですから話しやすいものです。

 が、無形の精神の独立となると、その意味が深く、かかわっているものがおおいので、かんたんにはいきません。

 みたところ独立とはかかわりのなさそうなものにまで、からんでいるのです。

 そのおかげで、この無形の精神の独立をはきちがえるものがとてもおおいのです。

 ちいさなことながら、いまからその例をあげてみましょう。

「一杯、ひと、酒を飲み、三杯、酒、ひとを飲む」ということわざがあります。

 このことわざの伝えたいことをかんがえてみましょう。

「酒を飲もうとする欲望が、ひとのほんとうの心をかくす。ほんとうの心なくては、ほんものの独立などない」という意味です。

 いま、世のなかのひとびとのおこないをながめていると、ほんとうの心をとどめるのは酒だけではありません。大小さまざまなものごとが、真の心の独立をさまたげているのです。

 この着物に不似合いだからといって、べつの羽織(着物の上に着る上着)をつくり、身なりがよくなれば、このすがたにあわないからといってタバコいれを買い、衣服がととのえばととのったで、こんどは家がせまいのも不自由な気がしてきて、家の建築をはじめ、できあがればできあがったで、祝いの席をもうけないのも不都合になってきます。

 うなぎ飯を食べていたものが西洋料理を食べはじめると、西洋料理を食べる自身を想像して、金の置き時計がほしいとかんがえはじめるわけです。

 こちらからあちらへうつり、一から十にすすみ、すすんではまたすすみます。

 かぎりありません。

 このありさまをみると、一家のなかにまとめ役がいないようなものです。体のなかには精神がないかのようです。

 品物がひとの体をあやつり、さらに品物をもとめさせています。

 人間が品物の支配のもとに、奴隷(どれい)のようにあつかわれているふうにしかみえません。

 なお、これよりもはなはだしい話があります。

 いまの話はおのれのもちものにおどっているものですが、その品物は、自分の家のなかのものです。自家用のものだったら、一家、あるいはひとりで品物におどっていればいいだけです。

 が、いまからするのは、他人の品物に左右させられるという例です。

 あのひとがこの洋服をつくったときけば、自分もこれをつくるといい、となりの家が二階になれば、自分の家は三階にしよう、などと息巻く人間をみたことはないでしょうか。

 こういうひとびとは、友人のもちものが自分の買い物の手本となり、同僚のうわさ話が自分の注文書の案になっているのです。

 色の黒いおおきな男が、角ばった指に金の指輪はすこし自分には不似合いとわかっていながら、西洋人はこれをしているのだと、無理になっとくして銭を奮発します。

 暑い夜、風呂あがりには浴衣(ゆかた)にうちわとおもいはしても、西洋人の真似をして、がまんしてスーツに汗をながすのです。

 こうしてみながみな、他人の趣味とおなじようにすることばかり心配しています。

 他人の趣味にあわせるのはまだゆるせるものです。

 わらってしまうような話になりますが、他人のもちものをみれば、どれもこれも高いものではないかと妄想(もうそう)をめぐらせる人物もいることです。

 となりの奥方が、たんねんにつくられた御召縮緬(おめしちりめん)(高級絹織物)に純金のかんざしをしているときけば、にわかに自分もとおもって注文するのです。そしてあとでしらべてみれば、どうしてわからなかったのか、となりの品物は綿着物にメッキといいます。

 この場合、自分の心を支配するものは、自分のもちものではありません。他人のもちものでもありません。

 煙のような妄想におどらされたのです。

 近所づきあいは妄想の往来(おうらい)にまかされているかのようです。

 これを精神独立とはとてもいえたものではありません。

 自分の身を()める、そのちがいがおおきいか、ちいさいか、おのおので気づくべきです。

 このような夢見の世渡りの末路など、きまりきっています。

 心をくたびれさせ、体を疲れさせ、一年で千円の収入も、ひと月に百円の月給もつかい果たして、無財産になるのです。

 ついには家でやりくりすべき収入をうしない、仕事をやめてしまうことがあれば、気抜けのよう、間抜けのようです。

 家にのこるものは無用の道具ばかり、身にのこるものは無駄づかいの癖だけです。

 あわれというにも、あまりにバカすぎるというものです。

 財産をたてるというのは、おのれの独立の、基本中の基本です。

 その財産をつかいこなすにあたって、かえって財産につかわれて、独立の精神をうしないつくすとは、まさに仕事をしておきながら財産をうしなうもの、というものです。

 私は守銭奴(しゅせんど)のやりかたをほめたたえているのではありません。

 金をもちいる方法を工夫し、しっかりと金を制して、金に制せられないようにすべきです。

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