十六編(2)

 心事と働きと相当すべきの論

 議論と実践(じっせん)と、どちらもよくできなくてはならないという話は、よく世間ではいわれていることです。

 が、この「世間でいわれていること」というのもまたただの議論にすぎません。じっさいに実践してやろうというものはすくないのです。

 そもそも議論とは、心におもうことを言葉にして、むかいあって談じたり、書物にしるすものです。

 いまだに言葉にも本にもだしていないのなら、これをそのひとの心事、あるいはそのひとの(こころざし)といいます。

 ゆえに議論だけではそとの世界にはなんの影響もあたえないもの、といってもさしつかえありません。

 こちらは内にこもっているものです。自由なもので、制限のないものです。

 実践とは、心におもうものをじっさいにおこなうことです。ゆえに実践にはかならず制限がどこかにくわえられます。その制限のために、あまり自由にうごけないのです。

 古人がこのふたつを区別するときは、言と行、あるいは志と功といいます。

 いま世間でいうところの、説と働き、というのもまたおなじものです。

 言行(げんこう)齟齬(そご)するとは、いうこととやることに食いちがいがある、という意味です。

 孟子(もうし)のいったことに「功に()ましめて志に食ましめず」というのがあります。仕事のこなしぶりによってほうびをあたえるべきだが、その心にどんな名案がうかんでも、かたちのない心事をほめるべきではない、という意味です。

 また世間ではよくみる話ですが「だれそれの持論(じろん)はりっぱだが、口先だけで働きのない人物だ」といって、軽蔑(けいべつ)さえすることもあります。

 いずれも、議論と実践が食いちがっていることをとがめる言葉といえるでしょう。

 それならば議論と実践とは、わずかなりとも食いちがわないように、平均をたもっていなくてはなりません。

 いま、学問をはじめたばかりのひとにわかりやすいよう、例をあげます。

 この例をもって、ふたつの説明をします。

 ひとの心事と働きのふたつが平均するとき、人間に益がやってくる理由。

 この平均をうしなったとき、どのような弊害が生まれるか、のふたつです。

 第一

 ひとの働きには大小軽重(けいちょう)があります。

 芝居(しばい)もひとの働きです。学問もひとの働きです。人力車を引くのも、蒸気船を運転するのも、クワをとって農業をいとなむのも、筆をふるって本を書くのもそうです。

 みなひとしくひとの働きです。

 が、役者をするのをやめて学問に打ちこむことをのぞみ、人力車仲間にはいらずに航海の術をまなび、百姓の仕事を不満におもって著書をはじめる、というようなものたちは、働きの大小軽重をみきわめたものです。軽と小を捨てて重と大にしたがうものたちです。

 人間の美学というものです。

 こうして、重と大をみきわめることができたのは、どうしてでしょう。

 本人の心が高く、志があったからです。

 このように心と志のあるひとを、心事の気高(けだか)いひとといいます。

 ゆえに、ひとの心事はつねに気高くあるべきです。

 心事が気高ければ働きもまた気高いものになるのです。

 第二

 ひとの働きには、役にたつものと役にたたないものがあります。

 囲碁(いご)将棋(しょうぎ)のようなものも、たやすいものではありません。これらの技芸を研究し、工夫をかさねるのは、とてもむずかしいものです。

 そのむずかしさは天文学、地理学、機械学、数学のような学問たちと、すこしもかわりません。

 が、こういう学問と、将棋のような技芸のどちらが役にたつかというと、いうまでもない話です。

 役にたつものか、役にたたないものか、はっきりとわかるひとは、すなわち心事のあきらかな人物です。

 心事があきらかでなければ、ひとの働きをしていながら、無駄なことをしてしまうことがあります。

 第三

 ひとの働きは、かならず適した場にもちいなくてはなりません。

 働きをおこすにあたって、場所と時期をかんがえなくてはならないのです。

 たとえば道徳の説法はありがたいものですが、宴会でみながはしゃぎまわっているさなかにとなえれば失笑を買うだけです。

 学生の激論もときにはおもしろいものですが、親戚(しんせき)の子どもたちがあつまるさなかでこれをさけべば、発狂人というしかありません。

 場所と時期とをわきまえて、ただしい場所に説法を、ただしい時期に議論をおこすのは、心事のあきらかなひとのすることです。

 働きばかりが活発でも、そのあたりの判断がつかないものは、蒸気に機関のないようなものです。船にかじがないようなものです。

 益をもたらさないのみか、かえって害をばらまくことがあります。

 第四

 いままでにあげた第一、第二、第三の例は、ひとが働くさい、心くばりのたりなさがおこす弊害でした。

 逆に、かんがえていることばかりが遠大で、じっさいに体をうごかさない人物の場合もまた、いろいろと不都合なのです。

 心事ばかりが高大でも、じっさいにはなにもしない人間は、つねに不平をいだかざるを得ません。

 そんな人物が世間のようすをながめて仕事をさがす、としましょう。

 自分の力量にかなうことは、のこらず自分の気高(けだか)い心事にことたらないのです。

 たとえばここに地理学の先生になるつもりの人間がいるとします。

 が、先生になれるだけの勉強も、それだけのひとの話もきかないで、けっきょく地理学の先生になれないひとなどがそうです。

 自分の心事をつよくするためには、じっさいに行動にうつさなくてはならないのですが、それをこの人物はしないのです。

 けっきょくこのひとは、仕事もないままにうわついたままでいることでしょう。

 ここまできてもこの人物は、その罪を自分のせいとはおもわないのです。

 ついには他人を責めはじめるか、あるいは「時にあわないから」とか「天命がよんでいない」などと理由をつけて納得するのです。

 そうして天地のなかに、自分のすべき仕事がないかのようにおもいこみ、ただ引っこんで頭をかかえるでしょう。

 口は恨みを吐き、顔に不満をあらわにし、身のまわりのものをみな敵とみて、天下のものはすべて不親切のようだと、かってに信じているのです。

 その心のなかをたとえれば、ひとに金を貸してもいないのに返金のおそいのを恨むものといっても可といえます。

 儒者(じゅしゃ)は自分の名が売れないことを心配し、学生はおのれをたすけるものがいないことを憂い、役人は出世ができないことを憂い、町人は商売があたらないのを憂い、廃藩(はいはん)をうけて士族位の消えたサムライはおのれの手に技能がなく生きる方法がないことを憂い、役目をうばわれた華族はおのれをうやまうひとがいないのを憂いています。

 朝から晩まで、彼らには心配ばかりで幸福などありません。

 いま世間ではこういった不満でみちているようにしかみえません。その証明がほしければ、日常生活のなかで他人の顔色をみてみれば、すぐにわかることでしょう。

 話す言葉も着る衣服も、どちらもととのい、胸のなかの幸福がそとにあふれるような人物は、世間にはすくないのです。

 私がいろいろとしらべたところでは、世間のひとびとはつねに悲しんでいて、よろこんだのをみたことがありません。

 そのツラを借りることができたなら、病人の見舞いにはちょうどいいことでしょう。彼らもこんな顔ばかりしていては気の毒ではありませんか。

 もしもこういうひとびとが、おのれの働きのなかで努力すれば、おのずと性格も活発になり、幸福を得ることができるでしょう。

 そうして自分のやっていることも進歩し、ついには心事と働きとで、平均をたもつことができるはずです。

 が、彼らはやはり気づかないのです。

 働きでは一ほどしかやっていないのに、心事だけは十なのです。

 一にいて十をのぞみ、十にいながら百をもとめ、けっきょくなにも得られずに、いたずらに心配だけを買っている始末なのです。

 たとえるなら、石の地蔵に飛脚の魂をいれたようなものです。あるいは足のなくなった患者に足の神経をくわえたようなものです。

 不平の度のほどと、彼らの感じているまどろっこしさ、いうまでもないでしょう。

 心事が高いのに行動のできていないものは、ひとに嫌われて孤立することもあります。

 その人物は体などうごかしていないのだから、自分の働きと他人の働きを比較すれば、他人におよぶはずなどありません。

 しかしその人物はあろうことか、自分の無駄に高い心事と、他人の働きとをみくらべてしまうのです。

 そうなれば相手の働きに満足するはずもなく、ひそかにバカにするのです。

 みだりにひとをバカにするものは、かならずひとから軽蔑(けいべつ)をうけます。

 たがいに不平をいだき、たがいに(かろ)んじあって、ついには変人奇人のようにあつかわれるのです。ついに世間にくわわることができなくなります。

 いま、世間のありさまをみるとどうでしょう。

 傲慢(ごうまん)不遜(ふそん)のためにひとに嫌われるものがいます。勝つことを欲するあまり、ひとをおとしめて嫌われるものがいます。ひとにおおくのものをもとめて、ひとに嫌われるものもいます。ひとの悪口をいってひとに嫌われるものもいます。

 いずれもみな、他人にたいしてくらべるものをみうしない、自分の有頂天(うちょうてん)な心事だけをもちいて、ひとの行動をはかったからこうなったのです。

 この有頂天の心は、酔っ払った理想をえがきます。

 そのような無理のおおい理想など、他人がおこなえなるはずなどありません。それを気づかぬままに他人をバカにして遠ざけるために、その他人に嫌われるのです。さいごには、みずからひとをさけて孤立におちいってしまうわけです。

 ためしに()ぎます。

 これからやってくる少年少女たちは、ひとの仕事をみて心に満足するものがなければ、しずかに恨んでいてはいけません。

 かならず、みずからその仕事に身をむけてみてください。

 となりの家の生活のしかたをくだらないものだとおもえば、みずからの家でもためしてください。ひとの本にどうこう口をいれたければ、みずから筆をとって本をつくってください。学者を評そうとするなら学者になってください。医者を評そうとするなら医者になってください。

 おおきなものごとから、ささいなものごとまで、他人の行動に口をはさみたいのなら、おなじ場所に身をなげなくてはなりません。

 職業のまったくちがうものであった場合も、よくその働きのむずかしさをながめるのです。

 ちがう職業でも、自分のやっている職業とでよくくらべてみれば、おおきなあやまちにはなりません。

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