心事の
ひとの人生をながめていると、おもうことがあります。
心にえがくよりも案外に悪いことをし、心にねがうよりも案外にまぬけなことをし、心にくわだてるよりも案外に結果をだせていません。
どのような悪人にも、生きているあいだずっと悪事のことばかりをかんがえているものはいません。
ものごとに接しているうちに、ふと悪念が生まれ、悪事としりながら手をそめてしまうのです。そのあとは、いろいろと自分のおこないに理由をつけて、無理に納得して悪事をつづけるわけです。
あるいは、ものごとをひどい手段でおこなっているあいだも、けっして悪事とおもわず、わずかにも心に恥じることがない場合もあります。それどころか、いいことをしているのだと満足を打っているのです。そこに他人の意見がはいると、かえって怒って、その他人をうらむこともあります。
そのようなひとも、年月がたってよくよくかんがえてみると、自分が悪かったのだと気づくのです。
ひとの才能にはかしこい、かしこくない、力が強い、よわいというふうに、差があります。ですが、いくらなんでも自分が獣の知恵にも劣る、とおもうものはいません。
たとえばここに、世のなかにある、さまざまの仕事をみわたし、自分にできるものをみつけた男がいるとしましょう。そうして自分にみあった仕事をよく引きうけ、事業をふくらませようとするあいだに、さいしょにたてた目的をまちがえて、失策もおおくあらわれることでしょう。そして世間に笑われ、さんざん後悔するのです。こういう話はよくあることでしょう。
じつに笑ってしまうような
けっきょく、世のなかのものごとは生物とおなじで、かんたんにゆくさきを予測することができないのです。
このせいで、知者といっても案外に愚をはたらくものもおおいのです。
また、ひとのくわだてとは、かならずおおきなものです。
ですがものごとの
フランクリンがいっていることがあります。「用意をじゅうぶんにすんだとおもったときも、じっさいにものごとに接してみると、なにか準備が足らないのではないかとおぼえるものだ」と。
まったくもって、そのとおりといえます。
大工に建築をたのみ、仕立て屋に衣服を注文しておけば、十のうち八、九は、期限をまもれていません。
これはべつに大工、仕立て屋がわざとやったことではありません。はじめに自分のやる仕事と、それを終えられそうな時間を精密に計算しなかったから、はからずも違約をおかしてしまったのです。
さて、世間のひとびとには、大工、仕立て屋に違約をとがめるひとはおおいものです。責めるにもそれだけの理由があるわけです。
大工、仕立て屋もまた、依頼主のいうことはもっともだ、とひたすら恐れいっています。
が、そのたいそうな依頼主の生活をよくみてみると、自分の仕事をかならず期限どおりにこなせているでしょうか。
いなかの書生が故郷をとびだすとき、苦労をかさねて三年のうちに目的をなしとげる、というものがいます。
その三年以内に、自分のたてた
無理なおもいつきにまかせて、ねがってやまなかった原書を手にいれて、三ヶ月のうちにこれを読み終わろうと約束したものもいます。
が、果たしてその約束を満たしたでしょうか。
将来有望のひとが「私が政府にでれば、この事務をこのように丸くおさめ、この改革をみごとにすすめ、半年のうちに政府を理想の場所にかえてみせる」というものがいます。
さんざん案をこらし、やっと目標の役人になると、果たしてその前日にいった口約束をまもるでしょうか。
まずしい書生が「私に万両の金があれば、あしたから日本じゅうのそこらに学校をもうけ、ひとつの家にも無学のひとがいないようにするのに」というひとがいます。
その書生に良縁がめぐってきて、三井、
このような夢想をあげると、きりがありません。
これらはみな、ものごとの難易度、それにかかる時間をかんがえないためにおこるのです。時間をみることが甘すぎ、ものごとをかんたんにかんがえすぎなのがおこす罪です。
世間で、ものごとをおこなおうとする人物の話をまとめてみましょう。
「死ぬまでに」あるいは「十年のうちにこれを果たす」と口にのぼらせるものがもっともおおいようです。「三年のうち」「一年のうち」というものになると、すこしすくなくなり、「ひと月」「きょうはじめる」と豪語するものはほとんどいません。「十年前にくわだてたことを、いま終えた」というものについては、みたことがありません。
このように、まだみぬ未来に、たいそうな約束をしてくれます。
が、その期限がせまってくると気高い未来のことを口にできなくなるのは、けっきょくものごとを計画するにあたって、時日のかかることを計算にいれていないからおこるのです。
日常生活のことだけでも、おもいのほか悪いことをしているのです。こういうわけで、あたらしいものごとに知恵をしぼる場合にも、おもいのほか愚を働き、おもいのほかに事業をとげることができません。
この不都合をふせぐ方法はさまざまありますが、ここにひとつ、ひとがあまり気づいていないことがあります。それはなんでしょう。
事業のひとつひとつに成功、失敗のハンコを押せばいいのです。成功、失敗に応じて、自分の胸のうちにつぎの計算をめぐらせることです。
商売でたとえるなら、
商売をしてやろうという人間のなかに、はじめから損をしようとたくらむ人間はいません。
まず自分の才能ともちあわせの金をたのみ、世間ではどんなものが売れるだろうかと想像力をはたらかせ、そして事業をはじめるのです。
そうして仕事をひらけば、つぎにはつねに状況に対応していくことになるでしょう。
たとえば自分の会社は、石炭によってなにかつくる会社だとしましょう。遠い国で石炭が高くなれば、自分の会社のつくる売り物の価格をかえなくてはなりません。そういう具合に、状況をみて対応するわけです。
自分の計画があたったり、はずれたりもするでしょう。仕入れを失敗していらないものを買ってしまったり、売りさばいて利益をあげることもあるでしょう。
一年、またはひと月のおわりになれば、手にいれた金と、つかった金を差し引きして、総勘定をしなくてはなりません。あまりに金の出入りがはげしいために、こういう総勘定をしなくては、店の主人といえども、もうかっているか、もうかっていないか、わからないのです。
総勘定をしてはじめて、みこみどおりにおこなわれたことがわかるでしょう。あるいは、すこし計画とちがっているのにも気づくかもしれません。
この商品ならば利益あるだろうとおもって仕入れたものも、棚卸しのときに書きだした損益の表をみると、おもいのほか損をしていることもあるでしょう。あるいは品物不足とおもって仕入れておいた菓子も、棚卸しのときに陳列棚の残品をかぞえてみると、たくさんののこりものがあることに気づくかもしれません。それなのに仕入れをしてしまっているのです。
商売でいちばんだいじなのは、毎日の帳簿をしっかりとつけ、棚卸しをする時期をまちがえないことです。
いまのは帳簿のことですが、ほかのことでもおなじです。
人間は生まれて十年もすれば物心もやしなわれます。
となれば商売にかぎらず、目のまえにおこるできごとすべての総勘定をつねに心がけていなくてはなりません。
知恵をみがくにはこのさきどうすればいいか、もっと人間のできた人物になるにはどうするか、損をしないようにするにはどうするかを、いつも想像するのです。
「これまで生きた十年は、なにを損してなにを手にいれたか。いまはどんなことをやっていて、そのようすはどうか。結果はでそうか。いまはどんなあたらしいことをして、そのための努力はどうしているか。
自分の心をよくとりしまって、あそびほうけたりしていないか。来年もおなじやりかたで結果はでるだろうか。もはやどんな工夫もこらす必要もないか」
と、おのれのいろいろな面をながめて、心の棚卸しの総勘定をしてみると、過去にもいまにも、かならず不満のあるところがでてきます。
例をひとつ、ふたつあげてみましょう。
「貧は士の常、
が、彼はじっさいには百姓の米を食いつぶして得意の色をなしているばかりで、まともに働きもしません。
そうして明治になり、働かなくては食べることができない世のなかになってしまうと、実力をみがかなかった彼のことです。現在はこまっています。
商売でいいかえると、船から鉄砲がはこばれていることをしらず、刀を仕入れて残品に後悔するかのようです。
和漢の古書ばかり読みあさって、西洋でつねに進歩している技術には目もくれない人物がいます。
古代の理屈をうたがわないのは、すぎさった夏の暑さがわすれられないで、冬に蚊帳を買うかのようです。
青年の書生が、たいして学問もしないままに役人になろうとすれば、一生低級役人にうろつくことになります。これもまた、仕立てかけの衣服を質屋で売ってしまうのとおなじことです。
地理、歴史の初歩もしらず、手紙の書きかたもしらないくせに、むやみにむずかしい本を読もうとして、五、六巻も読めばまたつぎの本を読むことは、お金もないのに商売をはじめ、つぎの日にはちがう商売に手をつけているようなものです。
和漢洋の本を読めても、国どうしがいまどんな状況でつきあっているかをしらず、あまつさえ生活のしかたもしらずにくるしむものは、そろばんをもたずに商店をひらくようなものです。
天下のものごとに口だししていながら、自分のありさまのみえていない人物は、となりの家計簿に意見をだして、自分の家に強盗がはいるのに気づかないようなものです。
流行ばかりに酔ってばかりで、みえる真実がなにひとつなく、自分がなにをすべきかをかんがえもしないものは、商品の名前をしりながら、その値段をしらないようなものです。
このような話は、いまの世にそれほどめずらしいことではありません。
原因は、ただ状況に流れるばかりでこの世をわたり、自分のいまのありさまに注意することがなかったからです。
いままでに「なにをやってきたか、いまはなにをしているか、今後はどうするべきか」と、自分の身を点検していれば、こうはならなかったことでしょう。
商売のようすをこまかく説明できるようにして、つぎの見込みをはかる、というのは帳簿の総勘定です。自分のようすをよくながめて、あしたの方向をさだめるのは、知徳の棚卸しです。