十四編(2)

 世話の字の義

 世話という文字には、ふたつの意味があります。

 ひとつは保護の意味です。

 もうひとつは命令の意味です。

 保護というのは、そばについて、悪いことから守り、あるいはふせぎ、財産をあたえ、そのひとのために時間をついやし、利益をうしなわないよう、心に傷のかからないよう、とにかく世話をすることです。

 命令というのは、ひとのために頭をしぼって、守りたい人物の身に便利になるだろうことを指図し、不便利なことには意見をくわえて、心を尽くして忠告することです。これもまた世話となります。

 このように、保護と指図、ふたつの意味両方をそなえてひとの世話を焼くときには、ほんとうによい世話がおこなわれて世のなかが丸くおさまることでしょう。

 たとえば父母が子どもにむけるものがそうです。衣食をあたえて保護をすれば、子どもはよく父母のいうことをきいて指図をうけ、親子のあいだに不都合なものなどおこらなくなります。

 政府と人民とのあいだもそうです。

 政府は法律をもうけ、国民の生命と心の平穏をたいせつにとりあつかい、安全になるようにはかって保護の世話をすれば、人民は政府の命令にしたがって指図の世話に背をむけないようになります。

 公私のあいだは丸くおさまることでしょう。

 ゆえに保護と指図とは、どちらもゆきつく場所がおなじでなくてはなりません。

 わずかにも保護と指図のたどりつくところが食いちがってはいけないのです。

 保護のゆきつくところは指図のゆきつくところです。指図のおよぶところはかならず保護のいたるところにならなくてはなりません。

 もしそうならずに保護と指図のむかう結果がかわった場合、たちまち不都合を生んでわざわいの原因となることでしょう。世間にその例はすくなくありません。

 おもえばその原因は、世のひとびとがつねに世話の意味をはきちがえているためです。

 保護にだけ力をそそぎ、あるいは指図にばかり気をもちいて、どちらかの意味のほうだけに心をつかうのです。

 そうなれば世話という文字のすべての責任を果たすことができず、おおきなまちがいにおよびます。

 たとえるなら、父母の指図に耳を貸さない道楽息子にみだりにお金をあたえ、その道楽を援助するのがそうです。

 保護の世話がいきとどいていながら、指図の責任はおこなわれていません。

 子どもが勉強によく打ちこみ、よく父母の指図にしたがう場合であっても、安心はできません。

 この子どもに、親がまともに衣食をあたえられず、ろくに勉強の道具もそろえてやらなければ、子どもは無学におちいります。指図の世話だけを果たしていながら、保護の世話をおこたった結果というものです。

 道楽息子は親不孝もので、勉強する子どもの親は無慈悲(むじひ)です。

 ともにこれは人間の悪事といわれているものです。

 古人のおしえに「朋友(ほうゆう)(しばしば)すれば(うとんぜ)ぜらるる」というのがあります。

 その意味は「自分の忠告をきかない友人がいるとする。その人物にかってに、よけいな親切を尽くし、相手がうっとおしがるのにも気づかず、あつかましく意見ばかりをすれば、ついには愛想をつかされ、あちらに嫌われ、あるいは恨まれ、あるいは馬鹿にされるだろう。こちらにはなんの利益にもならない。そうならないためには、あるていどまでたすけてやったら、こちらからは寄りつかないようにするべきだ」ということです。

 この言葉も、つまりは指図のゆきとどかないところには保護の世話をかけてはならない、という意味です。

 また、むかしかたぎな話ですが、いなかの老人が、古い本家の家系図をもちだして、べつの親戚(しんせき)の家を引っかきまわす、という話もあります。

 銭をもたない叔父がとつぜん実家の(めい)をよびつける、というのもあります。叔父は姪に自分の家の家事を指図し、すこしでも気にいらないことがあればその薄情を責め、家事のできていないところをとがめるのです。

 はなはだしいことには、みしらぬ祖父の遺言などといって、姪の家の財産をうばいとろうとする場合もあります。

 指図の世話はあつすぎて、保護の世話の痕跡(こんせき)もないものです。ことわざにいうところの「おおきなお世話」とはこのことです。

 また世に貧民(ひんみん)救助といって、人間のよしあしを問わないまま、貧乏になった原因をかんがえないまま、ただ金をあたえることがあります。老いて身寄りのないもの、たよるべき場所もないものにたいしては、それはとうぜんです。

 が、五(しょう)の米をあたえて、そのうちの三升は酒と交換して飲む、というものもないわけではありません。

 ひとに禁酒も徹底できないままに米をあたえるのは、指図がゆきとどかず、保護の度を越えたものです。ことわざにいうところの「おおきなご苦労」とはこのことです。イギリスでも民衆をたすけるにあたってこまるのは、このことだといいます。

 この理屈をひろげて、一国の政治にあてはめてみましょう。

 人民は税金を払うことで政府のしたいことをさせ、自分たちの家を保護してもらっています。

 それなのに政府が専制の政治をしいて、人民の助言をすこしももちいず、また助言をとなえる場所もあたえないとしましょう。

 保護はしていても指図をふさぐおこないといえます。人民のやっていることはすべて無駄、おおきなご苦労というものです。

 こういった例をあつめてみれば、かぞえることもできないほどになるでしょう。

 「世話」の意味には、経済論のもっともだいじなことがふくまれています。世をわたるにあたって、職業などかかわりなく、つねに注意していなくてはなりません。

 この議論は、すべてソロバンずくの計算で、ひとの心をまったくたいせつにしていないようですが、それはちがいます。

 薄く対応すべきところを厚くもてなし、あるいはやっていることは薄いことなのに、名前だけを厚くしようとすれば、かえって人間のもつ情愛をそこないます。

 名を買って実をうしなうおこない、というものです。

 ここまで議論しましたが、世のなかのひとびとの誤解をおそれ、念のためここに言葉をおぎなっておきます。

 世のなかですべき道徳と経済とは、ときどき敵対するようなところがあります。

 ですが、ひとりでおこなう善行というものは、どれも天下の経済に影響などあたえません。

 みずしらずの乞食に銭をあたえることもあるでしょう。あるいはあわれな貧民をみれば、そのひとの経歴をどうこうかんがえずに多少の財産をわけることもあるでしょう。

 銭をわけるという行為は、すなわち保護の世話というものです。

 この保護は指図とともにおこなわれるものではありません。せまい見識で、ただ経済上のことだけで乞食へのめぐみを計算するなら、たしかに不都合です。

 が、めぐみ、あたえたいとおもう心は、もっともとうとぶべく、もっともこのましいものです。

 たとえば乞食をしてはいけないという法律は、公平な判断です。が、ひとびとが私生活で、乞食にものをあたえようとする心は、けっしてとがめてはいけません。

 人間とは、つねにソロバンをつかって未来をはかるわけではありません。

 ただソロバンをもちいる場所、もちいてはいけない場所を区別することがだいじなことなのです。

 世の学者(学問するもの)は、経済の公論に酔って、ひとのもつただしい心をわすれてはなりません。

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