いまの陸海軍で西洋諸国と戦えるでしょうか。
無理な話です。
いまのわが国の学術を西洋人におしえられるでしょうか。
おしえられるものなど、ありません。
あちらの国からまなばされ、おそれさせられるのが関の山というものです。
外国には日本の留学生がわたりました。国内では外国教師が日本の生徒のために本をひらいています。政府の仕事や学校などでは、たいてい外国のひとをやとっています。これは公機関の例ですが、それ以外のところで生活するひとびとの視点でみてみましょう。会社や私立学校でも、やはり外国人をみることがあります。日本全国、公私ともども、いままで日本ではきくことのなかった商売をするとき、あたらしい法をおこすときなどは外国人をもちいています。すぎた給料を払っている場合もよくあるようですが。ひとのふりみてわがふりなおせ、とはよくいうことです。いま、まさにわがふりをなおすときなのです。
日本は数百年つづいた鎖国をといて、文明をたかめてきたひとびとにちかづきました。そのさい彼らのもつ文明にふれて、彼らの文明の高さに心臓がとびはねました。
心臓がとびはねないようにするにはどうすればいいでしょうか。慣れさせればいいのです。外国の人間をまねいたり、外国で発明された機械などをとりいれるのです。いろいろと無理も生まれるときもあるでしょうが、他国のもので自国のたりないものをまかなうというのは、一時的なことです。この外国の供給を国の失策といってはなりません。ですがこの一時的な供給は、いつおわるべきなのでしょうか。外国から力を借りずに自国だけですべてをするには、どうすればいいのでしょうか。これを果たすのはむずかしいことです。
方法はあります。供給をおわらせるには、学者が生まれるのを待てばいいのです。自力の力をもたせるには、学者に自国のことをとらせればいいのです。すなわち、これこそが学者に課せられた使命です。彼らのしなくてはならないことは、さしせまっています。わが国でやとっている外国人は、わが国の学者が未熟だから、彼らのかわりにやとっているのです。外国の機械をつかっているのは、わが国の機械がおとっているからです。外国人をやとったり、外国の機械を買って、わが国のお金をつかうということは、外国にわが国のお金を捨てるということです。ひとびとは惜しいことだとおもうべきです。いまの日本がこのようなありさまになっていることを学者は恥じるべきです。それでも、ひとはいつでも希望を捨てない生きものです。もし人間に希望の心がなければ、ものごとに打ちこもうとはしないことでしょう。あしたのことをおもって、きょうの不幸をなぐさめましょう。来年の幸せをねがって、今年の苦労を耐えましょう。むかしの世のなかはすべて古い体質にくるまれていました。そのために才能のあるひとでも打たれ、希望をはぐくむことはできませんでした。
いまはちがいます。この体質はあらためられ、学者のためにひらかれたかのようによいものになりました。天下のどこをみても、どの職業でも、利益をもたらさないものはありません。
ひとびとはみな、農業にいそしんだり、商業をおこしたり、学者になったり、公務員にならなくてはなりません。そうして本を書いたり、新聞をつくったり、法律をこしらえたり、技術をまなんだり、工業もおこしていくのです。議院も必要です。ひとびとの生活に役だつことであれば、やりのこしのないよう、人民が協力してすべての仕事に力を尽くさなくてはなりません。ただし国じゅうの人間であらそうわけではありません。力をぶつけあうのは日本人どうしではなく、外国人とです。知恵と知恵とのぶつかりあいです。
これに勝てばわが国の地位はたかまるでしょう。これに負ければわが国の地位はおちるでしょう。目的はあきらかで、希望はふくらむというものです。理想を現実にするためには、そのときの状況がおおきくものをいいます。ですが、いまもっとも必要な事業は、ひとびとの才能をつかってさがしていかなくてはなりません。いやしくも自力で生きる力をもつものは、これから日本に必要な事業をみていながら、そばで観察している理由はありません。学者は、努力しましょう。
いまの学者は、けっして尋常学校の教育をうけただけで満足してはいけません。その志を高いものにして学術の真価を目ざしましょう。どこまでも自由であり、独立をたもって他人にたよらないようになりましょう。仲間がいなければ、自分ひとりだけで日本国を維持できるほどの気力をやしなうのです。私は和漢の古学者たちの、ひとをあやつる方法をしっていながら自分を生かす方法をしらないところが、きらいで仕方ありません。これをこのまないからこそ、初編からずっといっているように人民は同権であるととなえているのです。自分の体のことは自分で責任を負い、自分の力で食べることをのべてきました。ですがひとびとに自力をださせるには、まだまだ言葉がたらないようです。
ここに酒を食らってばかり、女と遊んでばかりのわかい男がいるとします。彼をとめるにはどうすればいいでしょう。まずは飲酒を禁じて、女遊びもさせないようにします。そのあとで、ちゃんと仕事をおしえるといいでしょう。飲酒、女遊びをしているあいだに仕事をおしえるべきではありません。仕事をするようになったといっても、この少年を徳のある人物だ、などといってはなりません。日々の仕事をこなすだけではまだ無用の生きもの、というそしりをまぬがれることはできません。飲酒をやめ、女遊びをやめ、仕事をし、自分の力で食事をまかない、家に利益をもたらして、はじめて十人並みの少年とよべるのです。自食というのは、こういうことです。
わが国の、士族以上の位にいたひとは、数千百年もつづいた風習に慣れてしまって、衣食をしりません。自分たちが生まれたときから用意されている富も、どうやって手にいれたか説明もできません。食いちらすだけのくせに舞いあがることだけは一流の生物です。この生物は自分のおこないをかえりみて、これこそ自分のもつ権利だとおもってうたがっていないようすです。飲酒におぼれ、女に走り、みさかいをうしなっているのです。こういうことをしている人物が目のまえにいたとき、さとすにはどうすればいいでしょうか。さきほどの自食の説をとなえて、そのものの夢をさましてやる以外に方法はありません。ですが自食の説でもふれましたが、夢からさめるまでは、すべきことはおしえるべきではありません。できないからです。夢見の人物に、高貴な学問をおしえるべきではありません。世のなかに利益をもたらす意義を吹きこむべきでもありません。夢のなかで学問をしたところで、おぼえた学問もまた、夢のなかの役たたずなものだからです。
私が自食の説をとなえて、それ以上の真の学問のことをのべないのは、このためです。この説は、食べるばかりでなにもしないものに
それなのに、こういう話をききます。
さいきん、中津でともにまなんだひとのなかに、まれに学業をおさめきらないまま、生計をもとめるひとがいる、と。
生計をかろんじてはいけません。ひとの才能には長短があるものです。自分のゆく道をきめて、まっすぐすすむのはいいことです。
ですが、われもわれもと、みなが生計にだけ走ったらどうなるでしょう。すぐれた少年も才能を未熟なままにしてしまうおそれがあります。本人のためにもかなしむべきことです。天下のためにも惜しむべきことです。生計はむずかしいことですが、一家の未来をかんがえるのなら、すぐに生計の方法をさぐろうとするのはやめたほうがいいでしょう。一時的に銭をもうけ、ちいさな安心を得るより、力を尽くし、倹約をまもって自分をみがくのです。学問をするのなら、おおいに学問をしてください。農業をするのなら大農になってください。商業をするからには大商となるのです。学者はちいさな安心を手にいれるだけで満足してはなりません。雑な衣であろうとも、まずい飯を食らおうとも、寒暑がたちふさがろうとも、くじけてはなりません。米をつきましょう。マキもわりましょう。学問は米をつきながらでもできるものです。西洋料理だけでなく、麦飯を口にしたりすることでも、味噌汁をすすったりしたときでも、そういう、ふだん味わう日常のなかから文明のことをまなぶのです。