民情一新緒言(ちょげん)(2)

 私はかねてから言いたいことがありました。

 鉄こそが、文明開化の源だと。

 これこそが本書でいちばん伝えたいことです。

 これからわが日本も、鉄を掘り、鉄をアメのようになるまで熱して、これを自由自在の形に作り変えるようにするのです。鉄道を作るのです。電線もここから編み出すのです。機械も組み立てるのです。船を作り、武器を作り、道具を作りあげて、人間が生活をたもつのに必要なものを、すべて鉄でこしらえるのです。

 そうして初めて日本も文明開化をした、といえます。

 ただ、人民が新しい物事にふれてやろうという気を起こしたあとに鉄を打つか、それとも鉄を打ったあとに人民が新しいことに興味をもつようにするべきか、このあたりはまだまだ世間では議論もあることです。私もこれを考えていないわけではありませんが、本編の目的でもないので、この話は別の機会にもうけるとしましょう。

 先ほどもいいましたが、西洋人は蒸気、電信の発明をしたとき、それを見て狼狽(ろうばい)しました。

 その狼狽が起こったのは、どうしてでしょう。

 蒸気、電信の発達とともに、人々の意識が変わったのです。

 老人は少年がすさまじい勢いで成長していくのに驚くようになりました。電信や印刷の力によってすばやく情報が伝わることで、少年の成長速度が変わったのです。

 富んだ者は、貧しい者の思い上がった行為にいきどおるようになりました。これもまた電信によるおかげで、貧しい者がどこで何をしているのか、わかるようになったからです。逆に、貧しい者の中にも、思想の気高い者がいることを知って感服(かんぷく)することもあります。

 政府もまたそうで、蒸気機関車のはこぶ新聞紙や郵便の力によって、人民の苦情が増えたことに心を痛めるようになります。もちろん逆に、人民が国を守るだけの力を持つことをながめることができて、喜ぶこともあるでしょう。

 喜んだと思えば心配し、憤ったと思えば感服するようになるのです。そのめまぐるしさ、蒸気のない時代には考えられなかったことです。

 だからこそ、私はこれを狼狽といったのです。

 いまイギリスの文化は、もっとも一新した民情に適応した文化だといえます。が、そういいながらも、あの国ではいまもまだ人の心の変化が止まっていないようです。

 労働者たちが「ストライキ」といって、自分の会社にたいして、給料をあげろ、と責めたて、仕事をやめてほかの職業をさがす、というやりかたが有名になっているようで、さいきんはますますこういう風潮になってきた、といいます。貧賎(ひんせん)者がみるみる変わっていくのを見てとれるのです。

 また、おなじイギリスの国で、ギボン・ウェイクフィールドという人が出版した「植民論」に書いていることがあります。以下抜粋(ばっすい)します。

 世間では「人民が勉強する環境がととのったことは、たいへんな成果だ」といっています。それこそが最近の流行で、社会すべての善は教育の良さから生まれる、といわないものはないほどです。

 私もまったくもって同説です。こうなるのが理想というものです。

 が、そう理想を口にしながらも、じっさいに善が生まれたのをいまだに見ません。下民げみんを教育したところで、幸福など増してはいないのです。それどころか、知らない物を知り、見えなかった物を見るようになり、心に不平を持つようにさえなっています。

 ですがこれを、わが国でずっとおこなわれてきた教育の成果として見るものもいます。

 その人々によって唱えられているのが「チャーチスト運動」と「ソーシャリズム運動」です。チャーチスト運動というのは1830年ごろからイギリスで始まったもので、労働者たちが自分たちも政治家になれるようにしろ、ととなえる運動です。ソーシャリズムは社会運動と訳すことができるもので、社会で生まれた生産物などを、その国に住むひとすべてに、平等にわけあたえよう、という考えかたです。すべての仕事を国が管理することで、貧民がでないようにするのが目的だといいます。(この主義はフランスやほかの国々にある社会党とそれほどかわりません。いずれも下民の権利を守るために、貧富を平均してやろうというものです。そのために議員選挙法を貧富平均しやすいようにかえてやろうというのが、社会党のだいたいの意見です。が、私にいわせれば、貧賎(ひんせん)に味方して富貴(ふうき)を犯すものとしかいいようがありません。)

 警察などは、こういった社会党などは力でねじ伏せればたやすいことだ、と軽んじます。またある人が言うには、社会党などはほかの党と違って、少数派意見をかかえた人々の集まりなので、心配することはない、政治を動かすほどの力はない、という者もいます。

 が、私が社会党をみる場合は、少し違います。

 労働者のチャーチスト運動も社会主義も、けっきょくは人民の不平心の表れだと思うのです。

 その人民の中でも、とくに日雇いなどで他人に使われる最下層の者が、このふたつの考えかたに共感しやすいものです。彼らは日ごろから目上の者を恨み、憎み、人並みの生活をしたいと思っている者たちなので、当然でしょう。

 彼らはけっきょく、土民の域から出ることのできない連中です。

 この状況から考えれば、教育が人々の間にされるようになるたびに、それと一緒になって貧乏人の権利保護という考えかたも広がることでしょう。

 教育が一歩すすめば不平もまた増すのです。ついには富という物が、誰がどんなにがんばっても手に入らない物となり、気力をしぼって文明を高めてやろうという人間がいなくなるかもしれません。これは国をおびやかすことだといえます。なによりも危険というものです。云々(うんぬん)

 この引用元は、ほんとうは移民の方法をどうこう弁じている論文です。あふれる人口を早くよそにうつすべきだ、というのが本論ですから、この「民情一新」とは少し目的の違う話です。

 が、ここからイギリス人の心をくみとってください。

 いまのヨーロッパ諸国は、人知が進歩したために社会がみだれ、政府も民間もいまだにその行くべき道を見つけられずにいるのは明らかです。

 これからのなりゆきを考えれば、蒸気の恩恵によって物価も上下するでしょう。蒸気の力で賃金も増えたり減ったりするでしょう。蒸気の誕生のためにお金を借りたときの利息も少しずつ改まりもするでしょう。学問も技術も、商売も工業も、人のすることすべてに蒸気がかかわるのです。

 とうぜん、蒸気は政府の政策にも影響をおよぼして、どんどんその方策を変えさせていくことも、疑う必要はないでしょう。フランス民法も不都合なところを見つけることでしょう。ロシア、ドイツの警察法も無力を知るでしょう。

 いわゆる驚愕(きょうがく)狼狽(ろうばい)の西世界というものです。

 それなのにここで気に食わないのが、わが日本の学者たちが、その驚愕狼狽の西洋を盲信(もうしん)していることです。

 明治が始まってから十年以上になりますが、世論の言っていることをながめていると、ひたすら西洋の作り物をほめたたえ、足もとのおぼつかない西洋に寄りそい、はなはだしいことには西洋をおそれうやまい、おがみたおし、わずかにも疑いを入れないことです。

 一も西洋、二も西洋。なんの意見もはさまずに西洋の方法を猿真似しているのです。小さなところでは日常生活の衣食住のすべてを西洋にしています。大きなところになれば政令法律です。

 自分の国でよく方向のつかない物事を、とりあえず西洋の真似をしてすませているのです。おかしなこと、はなはだしいというものです。

 いまの西洋諸国はまさに、狼狽して方向に迷っている者そのものです。道に迷って左か右かわからない人物をつかまえて、みずからの行き先を決めるというのは、狼狽のもっともはなはだしい人間ではないでしょうか。

 どこかの家に火がついたとしましょう。その家の妻がうろたえて何をしていいかわからず、金の入った箱が大切なものだったことを忘れて、ただ一個の行灯あんどんをかかえて逃げだすようなものです。

 ほかにも、こんなのはどうでしょう。

 どこかの家の主人が病気にかかったとしましょう。家のものは医者をまねくのを忘れて、まず親戚(しんせき)に報告をするのです。

 どちらも狼狽(ろうばい)というもので、これを西洋のありさまと同じだ、というのです。このような火事や急病のあわてふためきを、真似するにはたりません。

 わが日本でも、西洋の文明を話しあうときには、あわてた妻や家人が出ないようにしなければなりません。でなくては、いたずらに世界の識者のあざけりを買うことになります。

 私は西洋の文明を取り込むべきではない、と言っているわけではありません。西洋文明こそがいまの世界標準の文明になっている、その理由を伝えたいのです。

 いまの文明は蒸気の発明によって生まれました。この発明が起こったために世界各国の民情はことごとく変わっていき、あたかも人民がまとめて取り換わったかのようになりました。

 この文明進化の速度に付いていくことができる人物のみが、文明を語ることができるのです。西洋を盲信していては、けっして文明を語っていることにはなりません。本編を作りあげた目的は、ただこれを忠告するためにあります。

 また、終わりに一言を付け加えます。

 前にも書きましたが、この本は蒸気船車、電信、印刷、郵便のよっつこそが文明の源だと論じるためのものです。「文明がおこった理由はこれら以外にもたくさんあるので、よっつだけとも限らない」という反論もあるでしょう。

 もしそういう説があるのならば、こう考えてみてください。

 いまの西洋を慕うべきか、恐怖すべきか、まずはどちらにするかを決めてください。

 次には、何かふしぎな力でも働いて、世界中にこの蒸気船車、電信、印刷、郵便というものがなくなったとしましょう。あるいは人類がみな、このよっつを忘れてしまう、と過程してみましょう。世界中から蒸気文明をとっぱらってみましょう。

 するとどうでしょう。そのあとでも西洋諸国を慕えるでしょうか。恐怖すべきものがあるでしょうか。西洋はそれほどでもない連中だ、とみることでしょう。

 たとえほかに目を見張るようなものが西洋にあったとしても、それは西洋にも東洋にもあるものです。それぞれの個性をもったもので、優劣を判断できるようなものでもありません。

 それならばすなわち、いまの世界文明の源とは蒸気のよっつの力といっても差し支えはないでしょう。このあたりは、もう少し意味を掘り下げて本編にもしるしています。読者へのわかりやすさを大事にしたかったので、重複(ちょうふく)をいとわず、簡単にここに数行を、この前書きの最後に付け足しました。明治十二年七月七日、著者記す。

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