いままであるものをたもち、古いものを守ることで世の平和をはかる、という方法を保守主義といいます。
あたらしいことをはじめたり、いままでにない手段をとることで、将来をさかえさせようという方法を進歩主義といいます。あるいは改進主義と名づけてもいいでしょう。
このふたつの主義は世界じゅうで、むかしからあったものです。これらふたつは、おのおのの国でおのおののおこないをしてきました。
そして、ときにはこのふたつの主義をもったひとびとが、たがいにせめぎあってきました。このせめぎあいがあれば、どちらの主義もおもうままにことをすすめることができなくなりますが、すこしずつですがものごとがよいほうへ進展します。
もし、このふたつのうち、どちらか一方が力をもちすぎれば、たいへんなことになります。保守主義のものが力をもてば、天下のものごとがなにもかも停滞してうごかなくなります。進歩主義が力を得れば、すすむばかりで、とどまることをわすれるようになります。
こうなれば人類の不幸をよぶでしょう。
たとえば徳川二百五十余年の平和をみてみましょう。このあいだは、おおきな争いはひとつもなかったのです。
元和偃武。西暦1615年の、大阪夏の陣をさいごとして、戦乱がおわったことを意味します。
ひとたび天下の平穏を手にいれたときから、民も官も平和ボケしていきました。ひとつのこと、ひとつのものにいたるまで、あたらしいことをやってやろうという人物がいなくなったのです。
幕府だけではありません。諸藩もまた、ただひたすら旧法を保守することばかりに気をつかいました。
仕事を処分するさい、やりかたのわからないものは、先例を引っぱりだしてあたるのです。どんな困難なことであっても、ひたすらふるいならわしにすがりついたのです。大から小まで、いままで先人がやったことを真似ばかりしてきたのです。
徳川の世は、先例が胸をそらせて、あたらしい力をねじふせていた時代とたとえられます。二百五十年ものあいだ、いちども武器がぶつかりあわなかったというのは、世界じゅうではどこにもみあたらない例です。
これだけ太平なのに、文明が遅々としているのはどうしてでしょうか。
その原因はおもえば、保守をかたくしすぎたもの、といわざるを得ません。その例をあげてみると、きりがありません。が、あえて一例をしめしてみましょう。
寛永とは徳川幕府があったころの年号です。1624年から1644年は、この年号でよばれていました。
このころ、幕府がキリスト教をふせぐといって、外国人が海外からやってくるのをとどめていました。キリスト教徒の日本人、天草四郎が1637年に反乱をおこすと、なおさら鎖国令をきびしくしました。
こうして鎖国はりっぱにひとびとにうけいれられて、ついにはひとびとの先例に定着していきました。自国ではとても片づけられないことがおこっても、外国人とまざって、外国の事情をしってやろうという人物が、時代にあらわれなくなったのです。
それから時代はとんで1800年のはじめになります。
日本と国交をむすぼうとしてことわられたロシアの軍艦が、樺太島や択捉島に砲撃をはじめました。
そんなさわぎが8年ものあいだつづくのは、さすがに国の一大事です。が、これでもなお国の人間に外国をみてやろうというものはあらわれず、あいかわらず横文字を読むというのは禁令となっていました。
けっきょくは、鎖国という先例をかたくなに守りすぎた弊害といわざるを得ません。
もしも1600年のころに、たとえ外交は拒絶したとしても、才能のあるひとにオランダの本でも読む許可をあたえていれば、ちがったことになったでしょう。
そうすればペリーがやってくる前には外国のことはしり尽くし、そのペリーが来航してきたときに、あれほどの狼狽をおこすこともなかったにちがいありません。外国人を刀で斬るだとか、日本人どうしで左右にわかれてころしあうだとかいうことも、すこしちがったかたちになっていたかもしれません。
保守にかたよりすぎる弊害は、大なるものといえます。
たしかにあの250年の平和は、当時社会のためにはきわめてのぞましいことでした。が、保守の弊害のことだけをかんがえてみれば、むしろ250年の平和を守りとおすよりも、そのうちの50年おき、あるいは100年おきに内乱でもおこっていれば、そのために人心をゆりうごかして、かえって文明の進歩をたすけることができたでしょう。
保守のもちこんだわざわいは、戦争というわざわいで洗うことができる、といって可といえます。
以上が、かたくなに守りすぎる弊害はおおきい、という理由です。
が、進歩主義からたづなをはなすことも、また危険なことです。この世のまちがいをあらためるというのは、ななめにかたむいた柱をカナヅチで打ち直すのに似ています。
が、進歩がすぎるというのは、このカナヅチの加減を、つねに力いっぱいふるうのとおなじです。ひとふりで柱はまっすぐたたず、つぎにはふたふりをこころみ、こんどは打ちすぎて反対にかたむくのです。
これをもどそうと、そのかたむいたほうをたたいてみると、またさいしょのかたむいた柱に逆もどりです。
おもえばこの柱をまっすぐたてなおすには、分度器をつかって、どのていどズレているかをはかり、そののち機械の力をつかって、すこしずつもとの位置にもどす方法しかありません。
柱を直すには機械をつかえばいいといえますが、人間の世直しに機械はつかえません。たとえ弊害がどのようなものかわかっていて、ななめにかたむいた柱のように、打てば直るものだとしっていたとしても、おこなうのはむずかしいのです。
この世がはじまって以来、人類の知恵も心も、機械のような正確さで、その弊害をあらためたものがあらわれた、という話をききません。
このあやまちをあらためようとして、あらためすぎて、かえってちがうあやまちをよぶのです。すぎたおこないをとどめようとして、むかしの堅苦しい世のなかをとりもどしてしまうのです。これを、鉄槌でかたむく柱を右から左からたたきつづけているようなものだ、とはいえないでしょうか。
世のできごとに、方向をしる道具がないのはいうまでもありません。
1700年代末のことです。ナポレオンがフランス市民と力をあわせて、乱暴をはたらく王政をたおす、という革命がおこりました。
ひとびとは貴族のひどいやりかたに、いよいよ腹がたったのです。これをあらためてやろうとして、ナポレオンのもとにつどって、貴族を武力で追いだしたまではいいのですが、こんどは首領のナポレオンが王を名のりました。
けっきょく、暴でもって暴ととりかえたにすぎないわけです。
いまの話とくらべればたいしたことのない話ですが、わが国の明治維新のはじめのころもおなじようなものでした。
あのころのひとびとは、むかしから日本にあったものを、とにかく憎んでいました。そうしてついに、むかしから存在しているものたちをあらためてやろうとして、とどまるところをわすれてしまいました。
日本土着の制度や風俗、もののかんがえかた、卓、筆のような有形のものまで、なにもかも捨てるという気風が生まれたのです。
さいきんになってようやくひとびとも、日本在来のものを捨てすぎた、日本にもいいものがあったのだ、と気づかれたようです。すこしずつですが、むかしをかえりみるものがあらわれはじめました。
くわしい例ならば、名古屋城のシャチホコの話をあげることができるでしょう。
明治四年、1871年のことです。名古屋の藩知事たちによって、名古屋城のシャチホコは、なんの役にたたないからとりはずそうという話がもちあがりました。そうして、いったんこのシャチホコはとりはずされて宮内省にあけわたされましたが、やはりとりはずしてしまえば惜しくなったようで、数年後には名古屋城の天守閣にもどりました。
シャチホコをくだしながら、またすぐにのぼらせているさまは、まるで天下のひとびとの心の進退のようです。ひとの心は、いきおいだけにまかせるとただしさを見失うという結果がみてとれます。
いまの人類の知力、情の深さをみても、世のなかのできごとを片づける実力がないということもわかります。
かたちのあるシャチホコにしても、こんなありさまなのです。
かたちのない文化、制度などは、もっとひどいことになっています。むかしの制度をあらためていながら、ただしくなっていないものもあります。むかしの文化を見直しながら、役だつ文化になりきっていないものもあります。ただしくしようとしすぎて、ふりかえることをわすれてしまったものもあります。すぎたことだったり、こと足りないことでありながらも、これこそちょうどいい、と信じきってしまっているものもあります。
これはただ、いまの人類の無知無識をうらむのみです。
文明開化とは、すすむことに力をそそぐことであって、むかしに帰ろう、というかんがえかたではありません。
ここでいった、すすむ、とはなんでしょうか。進歩主義にほかなりません。
進歩主義とは、これをおこなっているものをみれば奇怪で、ひとをおどろかせるようなこともあります。いままでになかった手法をつかうのだから、それは気味の悪いことでしょう。
が、のちの世のひとびとからみれば、けっして奇怪でもないのです。
徳川幕府のはじめのころになります。あのころは、ひたすら武芸をきたえることを重んじていました。そんななか、藤原惺窩、その弟子の林道春というひとがいました。彼らは武芸一辺倒の世のなかで、学問をとなえてひとびとをおどろかせました。
また、1700年なかばのことです。前野良沢、杉田玄白というひとたちが、はじめてオランダの本「解体新書」を日本語に書き直しました。これをみる世間のひとびとには、野蛮の国でおこなわれる医術をまなぶとはどういうことだろうか、とおそれました。
かつて異端のものも、いまはありきたりの方法となるのです。
のちには、天下のところどころに惺窩や道春が生まれるようになりました。武士なのに勉強をしないものは、かえってあやしまれるようになったのです。
オランダの学問もおなじです。時勢としては、まわりのものが「オランダの学問は異端だ」といってたたくこともあったでしょう。それでもなお捨てなかったからこそ、1830年にはオランダの学問で翻訳されているものがでまわったのです。
学問の進歩を、ここからくみとってください。(蘭学のはじまりについては、蘭学事始という杉田玄白氏の書いた本にくわしいでしょう)
むかしから、家も服も質素にするべきで、金はけがらわしいのでとおざけるべきだ、というかんがえかたがあります。
そして、ぜいたくな住まい、派手な衣服を嫌う、というかんがえはいまもつづいています。ですがあるとき、西陣織が生まれ、すこしずつ精巧なできぐあいになって、男女の衣装がどんどん華美になってくれば、さいしょは老人にも気に食わないことだったことでしょうが、今日になってみれば、この織物をつくる人物はわが文明にほこれるものだ、とたたえるものしかいません。
また瓦をしきつめた屋根は、いまの人間がみてもなんともおもわないことでしょうが、ここにも話があります。武江年表といって、江戸時代のさいごにつくられた年表があります。これに書いてあるのですが、1600年はじめのころにいた、江戸本町二丁目に滝山弥次兵衛というひとのことを話しましょう。
この人物が、あるときほかのひとよりもすぐれた家をつくろうとおもいたち、彼のつくった家の屋根を、表に面したはんぶんのほうだけを瓦でしきつめ、こうして彼は半瓦弥次兵衛と異名をとることになりました。当時、この弥次兵衛の屋根のしきつめかたは、江戸じゅうのひとびとをおどろかせたことでしょう。
こういう例は、家や服の流行だけではありません。
さいきんはやっている人力車もまた、百年前にはすこしあつかいがちがったのです。
1700年のおわりには中井竹山というひとがいました。彼が書いた草茅危言という本のなかに、別駕車という人力車を町と町のあいだにもうけて、のりたいものがのれるようにすれば、とても交通の便利になるだろうとしるしています。
つくりかたこそちがいますが、これこそまさに人力車というものですが、このころはまだ中井竹山先生の話をかえりみてやろうというものがいませんでした。
が、いまの世では、そうして相手にされなかったはずの人力車がそこらを走りまわっています。もしも墓の下に眠る中井竹算先生の霊がしることがあれば、含み笑いでももらしてしまうでしょう。
こういうわけで、みたことのない技術や方法というものは、かんたんにうけいれられることはないのです。
いまのひとびとの耳や目にとっては見慣れたものでも、むかしのひとはおどろいてしまうのです。むかしは奇怪におもわれていたような方法でも、いまの世ではじめて流行することもあるでしょう。
いまの人間の意識でむかしの人間の頑固さをみてみると、わらうだけではたりないほどですが、当時の状況ではそういうわけでもありません。保守主義というものは、力のあるかんがえかたです。この主義がたいてい進歩主義をはばみ、おもうようにさせないようにするのです。
とはいえ、さきほどもいいましたが、文明の進歩というものは、かならず進歩主義のひとびとの力でなくてはかないません。
徳川の時代は、保守の力があまりにも強大でした。おおきなものごとは、ほとんど前にすすんでいないかのようです。
が、この徳川の平和世界のなかでも、そのうちの数十年をながめて、ほかの徳川時代とくらべてみれば、かならずおおきく進歩したものもあるのです。
進歩の力もまた、さかんなものといえます。
それならば進歩主義は積極のはたらきといえ、保守主義は消極のはたらきといえます。
利益になるのは、人間が積極的なうごきをするときです。そしてこの利益をゆるめたり、または制約をくわえたりするのは消極のうごきです。
世界じゅうの人間の教育がきわまって、ほんものの英知を手にいれたときは、心のおもうようにすすみ、心にかなうようなものを手にして、それでいて節約をしるようになるでしょう。が、私のみるところでは、数千年、数百年のちに、このようなことが実現できるかどうか、とてもうけあうことはできません。
ただ、いまの世界の状況からかんがえれば、すすんで文明を高める方法をえらぶべきです。その成果がいますぐにでないことは覚悟するのはとうぜんで、教育をきわめるとか、きわめられないかというようなことは問うべきではありません。策をいまのうちにおこなっておいて、数十年の未来に花ひらくことを期待するのみです。
進歩主義といいますが、ひたすらむかしの制度、かんがえかたを捨てて、あたらしいものに走る、というわけではありません。そのほんとうの目的は、前にもいいましたが文明をすすめる、ということにあるのです。文明をすすめるにあたっては、ものごとの新旧を問うべきではありません。
ほんものの進歩主義とは、あたらしい、みたこともない方法はすすんでえらぶべきですが、旧法をもちだしたり、すこしやりかたを改変してもちいる場合もおおいのです。
いまの人知で、数千年あとのことを予見できるなど、かんがえてはいけません。せいぜい数十年さきを憶測して、これならば便利になるかもしれない、とおもうものをえらぶ以外に方法はないのです。
この話をたとえば、政治にうつしてみましょう。
さきほども無理だといいきりましたが、数万年のち、完璧な理想の世界になるようにするには、どんな策を練ればいいか、かんがえてみましょう。
その理想がはじきだせば、国というものが不必要となります。国と国にわかれてころしあったり、経済をあらそいあったりすることが無駄だというわけです。
政府もまた、国がなくなれば必要もなくなります。
国がなくなり、政府もなくなるのだから、どうして君主をたてる必要があるでしょうか。役人をつかう必要があるでしょうか。爵位や等級などはもってのほかです。
ですがこのかんがえかたは、子どものあそびとしかいえません。とてもかなえがたいことです。
こうしたかんがえかたを突きつめてみれば、人間のやることなすこと、すべてが無用の徒労という結論になってしまいます。進歩主義も、このおもちゃの理想世界を最終目的にしてしまえば、世のなかにおこなうべきことがなくなってしまいのです。役人がなくなり、国がなくなれば、ひとの仕事は底をつき、ただ無気力になっていくよりしかたありません。
ですが、いまの蒸気文明は、生まれてまもない文明で、なにもかも未熟です。
赤子のようなものです。
ですが、赤子ならば赤子らしいすすみかたをとるべきです。なにもしらない赤子らしく、さしあたって必要なものを、なんとかしてつくりあげていくのです。とても数千年のちのことをかんがえているひまなどないでしょう。
ゆえにいま文明のことをかたるものは、万代、千代をかんがえるのではなく、ただ十数年未来ほどで実のむすびそうなことをみつければ、ただちに身を尽くさないといけません。
少年や不学のものたちは進歩の方法を口にするにあたって、はげしいことばかりをいいます。そうしてかえって世間のあざけりを買い、信用をうしなったりするものもいないわけではありません。
理想世界をじっさいに生んでやろう、とおもうぐらいならいいのです。ですが彼らは、おもうのみではありません。じっさいにこの理想世界をなしとげようとして、行動にうつしてしまうのです。
このために言行がうかつなものになるわけです。
進歩主義の話にもどしましょう。
進歩主義はいつも、ひとびとにうけいれられません。
いまわが国で、すこしでも民権論の話をきけば、ただちに民衆も役人もうたがいをもちます。協和政治論は天皇をないがしろにするものだといってたたいたり、政府に敵なすものときめつけて、排斥するような場合もないわけではありません。民権論のためにはなげかわしいことです。論者のためにはざんねんなことです。