第二章 人間社会の種族中(いず)れか保守の主義に従い孰れか進取の主義に従う者ぞ

 保守主義と進歩主義、おたがいのせめぎあう理由は、前章で論じました。

 この二章では、社会に住んでいる人間の、どんなひとだったら保守のかんがえかたをもつようになり、どんなひとだったら進歩主義をとうとぶようになるか、その原因を話しましょう。

 第一。

 都会かイナカかのちがいによってわけへだてられるようです。

 ものごとの流れというのは、おこなう人間の数がおおければ、いきおいを得るものです。人口が密集しているところというのは、この流行を伝えるのも速くできる上、人数をあつめるのもかんたんです。

 すでに人数をそろえて世の流れをつくりだせば、あとはそれにおおくのひとがついてきます。

 ついにはものごとがどこからでたのかわからないまま、ただ流行のいきおいのみをひとびとはみるようになるのです。

 服の流行、歌の流行、そのひろがりかたの早さは、伝染病とかわりありません。おもえば伝染病がひとびとにとびかうのも、服や歌がひとをかえるのも、そのようすはおなじで、その原因もまたおなじです。ひとのいないところに伝染病は伝染しません。ひとのいないところに流行歌は流行しません。ただ人間がつどうところにのみ、さかんに流行しているのをみるのみです。

 あるいはこれはどうでしょう。

 イナカの地方で、新説をとなえて新工夫をくわだてようとするものがいるとしましょう。ですがその人物のかんがえ、おこないは、きく人間、みる人間がすくないために、ひろまるのがおそく、おもったとおりにいきません。

 手早くこれをおこなおうとするには、都会の地をふんで、いろんなひとびとに話し、批評をもらい、協力を得て、ふたたび地方にもどる、という方法しかありません。

 もろもろの時勢、流行は都会とイナカのあいだにかならず三年から五年の差があることをみてしるのです。

 ゆえに職人や芸人、文人学者にいたるまで、都会に住まなければ、有名になりうる持論をひとびとに伝えることはできません。

 都会というのはかならずしも、よい人物を生むところでありません。ただそういう人物にとって宿屋となるぐらいのものです。が、人間があつまるところともなれば、進歩的なおこないはまず都会でおこなわれるのです。そのいきおいも、すさまじいものにならざるを得ないわけです。

 第二。

 頭のかしこいひとと、頭のよくないひとにもまた、進歩か保守のかんがえかたにちがいがでるようです。

 ひととひとをくらべ、だれがかしこくだれがかしこくないか、それぞれ比較してみるとそのちがいははなはだおおいものです。これらをひっくるめて論じてみると、一方は在来のものごとに甘んじておおくのものをもとめず、一方は在来のものだけで満足することなくすすもうとするもの、といえます。

 かたや足るをしるものです。かたや足るをしらずして足す方法をさぐるものです。

 智恵と技術のある職人芸人は、つねに新工夫をめぐらせ、一歩でも先人よりひいでて、ひとびとの賞賛を得ようとするのです。学者や道徳あるものは、ちいさなことにも、むかしには存在しなかった説を発して、社会のかたちを改革してやろうとするのです。これらのひとは生涯、心にきざむのはただ古人のやりのこしたものをおぎない、いまの世界に不足するものを足そうとすることにあるのみです。

 いま、この国には和漢西洋の著書がおおくでまわっています。

 それらを書いた見識者、卓見者と称せられるものたちも、新工夫をめぐらせて新説をとなえるものにほかなりません。

 明識卓見をもって、独立をしてやろうとする精神をもつものは、みな進歩主義のひとというものです。

 あるいはこういうひとのなかにも、古代の記録書や歴史本の文字にばかり目をとおすのみで、古人の説だけを信じ、まったく無見識なひともないわけではありません。が、すこしでも才能や知識があれば、たとえみずから新説をみつけることはなくても、だれか他人の新説をきいて、これにおどろくこともあることでしょう。ついにはその説を信じて、進歩の方法をえらぶ、という可能性もないとはいいきれません。

 いまこの国で、西洋の新説をきいてそちらにくらがえした洋学者は、もともとは漢書生でした。これをみれば、まんざらありえないことでもない、とわかるでしょう。

 ただ、旧習にかじりつき、かたくなにすぎてどうしようもない人物というのは、無学文盲の愚民のみです。

 この連中は千百年の旧習には慣れきって、親しみきっていますが、これに慣れすぎているために進退をわすれています。それだけではありません。新説をきくだけでおどろくだけでなく、はなはだしいことには、そのおどろいた新説をみとめないのです。

 これを旧習にかじりつくものの最たるものといいます。

 ゆえに進歩主義にしたがうものは知識人におおく、愚人にはすくないのです。

 第三。

 年齢のちがいでもまた、進歩と保守に食いちがいが生じます。

 少年は感情ゆたかですが理性にとぼしく、老成人は理性がきめこまやかですが感情にとぼしいのが原因のようです。

 孔子はかつて「七十にして(のり)()えず」といっていました。七十歳にもなれば、欲のままに行動をとったところで、けっして道徳からはずれることはない、という意味です。

 ですがこれは、感情がおとろえきって理性のみがのこり、その理性にしたがって世のなかをわたるから、すべてのものごとに支障がないというだけではないでしょうか。それを孔子もみずから察して、そう発言したのではないでしょうか。

 ただし聖人というのは、やはり神聖なものです。もしそういうひとがいるのなら、かならずしも七十歳でなくとも人徳が長けて、よく則を越えないほどのひともあるでしょう。また年をとったところで、なお活発な感情をたもっていることもあるでしょう。

 これをどうこういうのは、本論の意図にないことなので、しばらくおいておくとして、いまの世界についていいましょう。

 たとえ聖人以下の平凡なひとびとといっても、その人類をのこらず七十歳の老人にしてしまったとするとどうでしょう。世のなかに則を越える物はすくなくなるのはまちがいありませんが、すべてのものごとがしずまりかえり、天地はひっそりと息をひそめることでしょう。

 七十歳の天地におこなわれるものは、なにもかもが保守です。文明の進歩はきわめておそいことはうたがいようがありません。

 そもそも年少のときというのは、血液の流れはひたすらさかんです。そのために神経の作用が高く、視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚などの五感はとにかく敏感です。そのため老人にくらべて、食うものははるかに老人よりうまく感じます。みるものもうつくしくみえます。におうものもより甘く感じ、きこえるものもおもしろいのです。

 天地にあるものごとのすべて、ひとつのこらず愉快でないものはありません。

 若いころというのは感情が高いために、感動のするどい時代です。ですが年齢をかさねて老い、五感がおとろえてしまえば、新鮮な感情をあらわそうとしても、わかいときほどには感動はしません。

 それだけではありません。

 むかしに体験した感動をずっとおぼえてわすれないでいるために、今年の新発明をみても、当時にいだいた感動ほどにはならないのです。そうなる原因が自分の老いにあるとかんがえず、ただその新発明がたいしたものではないのだ、ときめつけることもあるのです。

 たとえば長年、とおい地域に住んでいるひとがいるとします。その人物はしきりに故郷を慕い、故郷の味をおもい、故郷に伝わる方言をとうとび、故郷の山水をうつくしいと感じ、故郷にある城、寺院はすばらしいできばえだ、と信じています。じっさいにはそれほどでなくても、です。

 イナカの老人が江戸の美味を口にしたときも、これはわがイナカの料理にはとうていかなわないものだといって、よろこばないのもその一例です。(おなじように、子どものときに読書のしかたをおしえてくれた先生のことは、一生これを大先生ときめます。ひとたび主人としてあおいだものは、主従関係をといたのちも、なおそのもと主人をあがめたてるのもそうです。その例はあげればきりがありません。私がひそかにおもうには、報国の心も、君臣の忠義も、親子の間柄、師弟関係など、いずれも年少の感情ゆたかな時代にあったできごとのため、生涯わすれることができないのでしょう。もうひとついうならば、年老いた夫妻が、その妻のほうをうしなったとして再婚したとしても、幸福が薄いと嘆じるのもまた、一例となるでしょう)

 年をかさね、ながいあいだ世のなかのものごとをみていると、なにが得でなにが損か、よくみえるようになってきます。それにくわえて分別もつくものだから、軽々しくあたらしいものごとに挑戦することをこのまなくなります。

 ここにおいて、この世のありさまに不平をうったえて「これも無益だ、それも不用だ、奇怪なものだ、法外なものだ」といって、ひたすら現在のものごとを嫌うひとがいます。そういうひとはまるで、自分がわかいころ愉快におもっていた時代まで、時間をまきもどしてやろうとしているふうにさえみえます。

 けっきょく、進歩主義をすすめるさいには、年をとりすぎたひととは語れないのです。

 ですがこれとは逆に、血気にあふれた少年は数十年前をしらないために、なにをすれば成功して、なにをすると失敗するか、よくわかっていません。ただ、いまのありさまを愉快におもって、ますます多をもとめるのです。これをみれば「奇怪なものだ、おもしろい」といって、あの説をきけば「奇妙なものだが、たのしげだ」とおもうわけです。失策に失望せず多忙にくじけず、たおれればまたおきて、負ければふたたび挑戦するのです。

 このように利益をもとめるのはいいことです。

 が、とどまることをわかっていません。

 おもえば、こういうわかいひとびとがすすもうとするのはなぜでしょうか。

 足るをしらないからです。

 足るをしらないとは、いまのありさまを愉快に感じながらも、まだまだ不満がいっぱいで、将来のために努力する人物のことです。

 老人も少年も、どちらもむかしのことで満足しているわけではありません。が、老人は現在を嫌ってうしろにさがろうとします。少年はおおくをもとめて前にすすもうとするのです。

 もしもいまの人間社会をなにもかも老人の手にわたしたら、失策はすくなくてすみ、なにごとも慎重にすすむでしょう。が、人間のやることなすこと、停滞にとどまるのはうたがいありません。

 逆に少年だけにこの世のことをまかせたなら、ことは活発にうごくでしょうが、粗雑なことがおおく、奇妙な失敗もおおくみることでしょう。

 これら両者の、どちらがよくて、どちらがわるいかなどという話は、今回の論の目的ではありません。

 ただ保守進歩のはたらきが、年齢のちがいでも生まれるのだというのみです。

 第四。

 貧富のちがいもかかわっています。

 地面を貸す商売は安全ではありますが、利益はわずかです。海運の仕事は利益がおおいのですが、なにかとあぶないものです。はじめにかかる金がもっともすくなくてすみ、なおかつ利益をもっとも手っとり早く得ることのできるのは、ばくちと株取引などの相場です。が、これはどうじに、もっともあぶない商売でもあります。

 利益のあることには、危険もそれにともなっておおきくなるわけです。危険の大小によって利益のほどがきまるのです。

 商売計画、工業計画から政治改革にいたるまで、社会のものごとにあたらしいものごとをほどこすときには、あるていどの見込みをつけることはできるでしょう。

 が、しょせん人間は神ではないのだから、安全を前もってしることなどかないません。

 いったん失敗すれば財産をうしなってしまうだけではありません。はなはだしいことには死に追いこまれることもあります。ものごとの計画や改革は危険もおおきいということです。

 もしも世のなかに、わずかな元手で大利益を生むようなものがあれば、万人が万人みなこれに走るでしょう。しかし、むかしからいまだにそのような例のあるのをみたことがありません。

 巨万の財産をもつ人間か、もしくはそれなりに不自由のない暮らしのできている人間からすれば、気軽にことをくわだてないほうが得策なのです。また、古今からつづく歴史をみても、こういうひとびとはつねにものごとをなそうという気がうすく、改革進歩に共鳴を起こす人間はごくまれです。

 こういうひとびとは利益をこのまないというわけではありません。

 手にしているものをうしなうのを、おそれているだけです。

 ただ、金のない人間になると、そうでもありません。

 金のない人物でありさえすれば、無知の小民から、知識や智恵のあふれる勉強者にいたるまで、あたらしいものごとをこのまないものはありません。

 こういう貧乏なひとは、なにか事故や事件にまきこまれたところでうしなうものはありません。それどころか、おおきなものを得る希望さえあるのです。それはまるで、エサをつかわずに魚を釣っているかのようでさえあります。

 得られなかったとしても、もとめるのをやめません。得ればそれはもう無から有を生みだしたようなもので、たいへん得をした気もちになるのです。

 人間のおぼえる快楽に、これを越えるものは存在しません。こういう話は世界じゅうにころがっていることなので、あえてここでどうこう論じる必要はないでしょう。

 また、貧乏な上にさらに独身であれば、もっとも進歩主義にふさわしい人物だといえます。

 妻子をおもう心は、正義のひとのこころざしをくじく一大劇薬で、たいていのひとはこの劇薬のために屈してしまいます。

 歴史をながめてみましょう。

 自分の死をいとわない人物が父母とわかれた数と、妻子を捨てて進歩に走った人物とをくらべてみれば、その差にはとてつもないひらきがあるのをしるでしょう。

 父母を捨ててほかの地にうつるものはおおいのですが、妻子と縁をきって世間をうろつくものはすくないのです。

 ここからみちびきだせるのは、親子のしたしみは夫妻の情熱にとおくおよばない、ということです。

 ゆえに、現在の社会にあまんじて旧を守るひとはかならず富んだ家の主人で、そうでないものは貧乏をなめたものであるといわざるを得ません。

 中国、漢の時代には、孟嘗君(もうしょうくん>という大臣と平原君(へいげんくん)という大臣がいました。どちらも名大臣なのですが、彼らのところでは数千人が寝起きしていたといわれています。この数千人は、かならず貧乏の血気人物であったのはまちがいなく、当時の社会の原動力だったことでしょう。

 また、さいきんのフランスも学者や論者に独身がおおくあります。こういうひとびとは心をとどめるものがないために、おもうところをいい、おもうところをおこなっています。

 そんな彼らの力によって、あの国の世間はひどくやかましいのです。

 日本でも議論をよくたてるものは、家をもたない書生にこそおおいものです。こういうたぐいのひとは今後もどんどん増え、へるきざしもみせないでしょう。彼らをいかにあつかうかによって、国がおおきく得をするか、おおいに損をするかがきまります。

 第五。

 公務員か民衆かによっても、ちがいが生まれます。

 社会に住む人間にはおのおの、貧富貴賎、智愚強弱がきまっていて、ひとりひとりにどんなことが利益になるかがちがいます。

 たとえばとある町に鉄道を敷こうという話がもちあがるとします。とうぜん、その鉄道を敷くには民衆の金がいるわけで、富むものからもまずしいものからも100円ずつ金をとったとしましょう。

 しかし富むものはよく鉄道を利用しますが、まずしいものはなるたけ徒歩ですませるのです。

 まずしいものからすれば、鉄道はなくてもいいもの、というわけです。利となるか害となるか、ひとそれぞれによるちがいは、こうして生まれます。

 利害のことなるひとびとを、ひとつの政府にまかせて支配させれば、かならず政府は法律をつかってまとめようとします。しかしどうしても、法律をもうけてだれかの幸福をのばそうとすれば、べつのところではだれかがひどい目にあうのです。このあたりに住むひとの幸せを高めれば、あちらに住むひとびとが損をするのです。

 法律ひとつでは、どちらかが多少の不満をもたざるを得ないのです。

 不便や損害がおこれば、とうぜんうったえもおこります。

 これを癒やしてやるために、どんな地域のものも満足するようなもとめに応じようとすると、各地ごとにその政令をかえて、法律もそこにあわせてあらためることになるでしょう。

 ですがまた、これが不平の原因となって、よりいっそうのさわぎになります。

 となれば政府も政府で「とうてい人民すべての満足をかなえることはできないのなら、こんなものなのだ」と覚悟してしまうわけです。

 政府には、つとめて政治をかんたんなものにして、法律をあきらかにして、とにかくかえないようにする以外に手段はありません。

 不変ならば、たとえ目の前にちいさな利害があっても、これをかえりみる心のゆとりなどあるはずがありません。変化を前にしても、平然として流してしまうのです。

 不変の政治や法律をじっさいに人民におこなおうとするには、あるていどはおどさなくてはなりません。

 おどすのになにをつかうかというと、腕力です。

 ですが政府もわきまえているもので、腕力をみせつけはしますが、かんたんにそれをふるったりはしないのです。あたかも弓を引いて、はなたないで待ちかまえるありさまです。ひたすら慎重を守って、旧時代のものをかばって、現在の秩序をみださないようにして、社会の安全をたもとうとするのです。

 これに反して、人民はそうではありません。

 おのおのが自分の利害を話し、おのおのがその便利不便利をうったえて、ひたすら左右をみつめ、うしろをかえりみざるを得ないのです。ひとりひとりをみていると、どのひとの話もただしいふうにみえます。どのひとのうったえも一理あるふうにおもえます。

 その上、世間に不平をいだいているものはおおいのです。逆に満足を打っているものはすくないのです。

 満足しているものはだまりこんでみているのだから、不平者だけがやかましくしています。

 ケンカはあれこれとおこり、やむこともありません。これをつづけているうちに、ついにはこれが一国の世論にまでのぼっていくのです。その方向はつねにあたらしいもの、変動をこのむのです。

 また、権力をもとめるのも人間のつねというものです。政府のひともちょっとしたことで、持ち前の権力を誤用して、権力をもとめる人民を押さえようとすることもあります。

 そうして、人民を圧することが重ければ、人民の抵抗もまたそれ相応に強くなるのです。さいごには官民のあいだに、おおきな傷ができるでしょう。けっきょく役人は保守を失敗して、民は進歩をうしなうのです。

 こうなるのは人間の品性に問題があるのではありません。官か民か、どちらかが力のもちいる場所をまちがえるからです。

 このような五箇条には、もっと深めていうべきことがおおくあります。が、じっさいに私がいまいっているとおりなのだとすれば、進歩主義をいだいてあたらしいものごとをはじめるものは、都会の状態を熟知しており、智恵にめぐまれて年齢が若く、家が貧乏な人民ときまっているのです。

 逆に政府は金持ちと老人、成人にたのんで、田舎の愚民をあやつることで数をそろえ、保守を守るわけです。

 ただし念のためにいっておきますが、今回は論説のために、このように両極端にわけへだてましたが、じっさい日常では例外もはなはだおおいものです。

 人間社会のおおよそのありさまを論じるとこうなるのだ、というまでの話です。

 読者たちはかならず、字句におぼれてこの本の目的を見誤ってはなりません。

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