下の表に、1784年から1879年までの96年のあいだの、イギリス首相の在任期間をしるしておきました。
就任年月日 | 在職期間 | 首相の名 |
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1783年12月23日 | 17年84日 | ウィリアム・ピット |
1801年3月17日 | 3年56日 | アディントン |
1804年5月15日 | 1年241日 | ウィリアム・ピット |
1806年2月11日 | 1年64日 | グレンヴィル |
1807年3月31日 | 3年102日 | ポートランド公 |
1809年12月2日 | 1年350日 | パーシバル |
1812年6月9日 | 14年307日 | リヴァプール伯 |
1827年4月24日 | 121日 | カニング |
1827年9月5日 | 168日 | コデリッチ子爵 |
1828年1月25日 | 2年301日 | ウェリントン公 |
1830年11月22日 | 3年231日 | グレイ伯 |
1834年7月18日 | 128日 | メルボルン子爵 |
1834年12月26日 | 131日 | ロベルト・ピール |
1835年4月18日 | 6年138日 | メルボルン子爵 |
1841年9月6日 | 4年295日 | ロベルト・ピール |
1846年7月6日 | 5年173日 | ラッセル |
1852年2月27日 | 293日 | ダービー伯 |
1852年12月28日 | 2年37日 | アバディーン伯 |
1855年2月10日 | 3年24日 | パーマストン子爵 |
1858年2月25日 | 1年104日 | ダービー伯 |
1859年6月18日 | 6年122日 | パーマストン子爵 |
1865年11月6日 | 242日 | ラッセル伯 |
1866年7月6日 | 1年241日 | ダービー伯 |
1868年2月27日 | 235日 | ディズレーリ |
1868年12月9日 | 5年7日 | グラッドストン |
1874年2月21日 | 現在在職中 | ディズレーリ |
上記96年のあいだ、首相の交代は26回ありました。
在職期間のみじかいものは121日、ながいものは17年84日です。
5年以上つとめたものは、いまの首相「ディズレーリ」をあわせて7人。10年以上首相をつづけたのはわずか2名のみです。
また、この26人の平均在職期間を割りだしてみると、ひとりにつき、だいたい3.69年ほどです。これをアメリカ合衆国の4年間の在任期間とくらべてみると、むしろ交代が早いほどだといえます。
そもそもアメリカの政治形態がつくられるときに、大統領の任期を4年とさだめたのは、ただなんとはなしにやったわけではありません。当時のかしこいひとびとが、世界じゅうの形勢をみつめているうちに、一国をにぎるものはその高位に長居するべきではない、だからこの国の期限も4年ときめておくべきだ、とひらめいたからです。そうしてひらめいたものを、このように法できめたというわけです。
イギリスではアメリカのように交代する時期は約束されていないのですが、政権うけわたしの時期をかんがえれば、じっさいはアメリカとちがうところはないといえます。これもぐうぜんではありません。
イギリスのながい歴史のなかで、むかしのひとびとがいろいろとためしているうちに、ついに一種の治風がかたちづくられたのです。これは歴代のひとびとの大成果といわざるを得ません。
たしかにそうですがその治風が、1800年代になって文明進歩のなりゆきによく噛みあって、わずかにも社会に違和感をあたえなかったというのは、先人たちも予想できなかったことにちがいありません。
先人というのは、いまの世界を予見できません。
予見もできないのに、いまの文明に適した風土をきずくことができたのは、ぐうぜんのたまものといえるものでしょう。私がとくにイギリス政治を賞賛するのも、前にいったように、この一点にあるのみです。
時期がくれば政権をほかのひとにゆずることが重要だという証拠と、アメリカのような4年契約の有無にかかわらず、どこでもかならず政権交代がおこなわれているという証拠をみせますが、その例を西洋諸国にはもとめず、日本の先例を引っ張りだしてしめしましょう。
かつて日本で、徳川幕府がはじまってすぐのころは、幕府にも諸藩にも、かしこい大臣がいて、よく良事業をおこなう場合がおおかったものです。
政権のことにかんしては、将軍一家だけがしきっていたので、これは例外としておいておくとして、その後の太平時代にはいってしばらくしてみると、どんどん藩から名領主とよべるものがすくなくなっていきました。
その名領主のとぼしい時代にはいってみると、諸藩のなかで、家老も御用人も、藩政の実権をとるものが、十数年いすわりつづけた、という例はきわめてまれになってきます。
私はながいこと、家老の在任期間はみじかかったのではないかと疑念をいだいていたのですが、諸旧藩の古老にたずねてみると、やはりたいていは長居しなかった、とこたえています。
執権のそばにつかえていた重臣は1年で辞職、そうでなければ3年でしりぞけられています。はなはだしいのは、藩内での論議がわきあがりすぎて、その重臣を奸臣よばわりし、あるいは不忠者と称して、そのせいで蟄居、つまり自分の部屋からでるな、と申しわたされるようなこともあったそうです。
そのかわりに職をうけついだものは、これもまた前年におなじような理由で禁固されられていたような重臣で「この職につけたのは青天の霹靂だ」といって得意をなすのですが、やはりまたしばらくして、ふたたび政治の風雨にみまわれて、その高位職をまっとうできないだけでなく、その命をもまっとうすることができなかった、というふうな事情があったそうですが、これもまたどこの藩もおなじようなものでしょう。