第四章 この利器を利用して勢力を得るの大なるものは進取の人に在り。魯国及びその他の例を見て知るべし。(2)

「(前略)……このさいきんになって、モスクワ、ペテルブルグの学生たちが、ようやくヨーロッパの新説をきくことができて、よろこんでいるすがたをみかけるようになった。

 とはいえ、どうどうとこのヨーロッパの本が書店で売られているわけではない。

 この30年のあいだに学生たちは、イギリス、フランス、ドイツで発行されている書物を買って、ひそかに読むようになったのだ。特に、ホッブス、フォークト、バックル、ダーウィン、ベンサム、ルーゲ、スチュアート・ミル、ルイ・ブランなど、著名人たちの名説にであえば、感動をいだかないわけがない。

 これまでロシアのひとびとは、天地にはロシア以外に国はないとおもい、政府はこの世にロシア政府のみとおもいこんでいたところが、すこしばかり国境の山を越えて小川をまたげば、すぐそこにはべつの天地がひらけていることに気づいたのだ。そこにはべつの政府があり、べつの人民がおり、しかもそこの人民は個人の権利を主張しておきながら、社会の秩序をべつだんみだしてはいないというのは、奇な話ではないか。わがロシアで自分の権利を守れといえば即座に逮捕があたりまえだというのに。奇なばかりではない。美ではないか。

 あちらも人間、こちらも人間。それならばこちらはその美をもとめて、あちらの真似をしてやろうとするのはとうぜんの流れだ。だから、かくれてでも読むのである。

 まるでロシア人民は、早朝の鐘の音で目をさましたかのようである。春におこった雷が虫たちをよびさましたかのようでもある。目をさましたその虫たちは、いったん目をあければ、むかしどおりに旧天地に引っこんでいるわけはない。

 ついに世間はこのことで大激論がとびかうようになった。

 それにあわせて、虫をおさえていたニコライも死に、いまの皇帝「アレキサンドル」二世がたった。それからまもなくして、モスクワの識者にゲルツェンというものがあらわれるようになる。

 彼は書生党(あちらの言葉でいうナロードニキの党員です。ナロードニキとは、急進の人民主義者たちのことです)であるが、その根をつくりだした人物で、のちに社会党をきずくことになる。

 むかし、この識者ゲルツェンは政治のことに首を突っこみ、ちいさな得失を話してしまったために、先帝ニコライの怒りに触れて、牢にとじこめられていた。それがおわればこんどは、検閲のきびしさのためにイタリアに脱出し、ロンドンにおちついて、そこでまた政府批判をおこない、そのまま追放という処分をくだされた。そうしてロンドンに腰をすえたまま、出版社を設立し、毎週雑誌を発行して、その表題を「コロコル」と名づけたのである。

「コロコル」とはロシア語でいうところの鐘(どちらかというと警鐘(けいしょう)という意味で、ようは人民に警告を発する、ということだ。

 このコロコルだが、アレキサンドルが即位のときには、まるでそのアレキサンドルあてに書いた手紙のような文体であった。

 ひたすら前代皇帝ニコライをとがめ、独裁をふるって人民をくるしめ、文明国のやりかたを逆行するような方法でひとびとの権利をさまたげたのは、すべてニコライの責任である、という話からはじまる。その相続人であるアレクサンドルはこの罪をつぐなわなくてはならなく、そのためにはこちらの主張をきいてほしい、というわけだ。そうして、さまざまな要望をならべているが、そのなかでも特に奴隷法を即座にやめてしまうべきだ、といって、おそれることなく公然とロシアの専制政治を攻撃したのである。

 この雑誌がいったん世にでると、発行者ゲルツェンの名声はヨーロッパじゅうできかれるようになっていった。

 どのような身分、どのような立場のものも、あらそってコロコルを買いもとめるようになったのである。たんに学者や道徳者がよろこぶだけではない。すこしでも文字のわかるものならば、風聞(ふうぶん)でもしることができるのだ。ついにはヨーロッパにゲルツェンの名をしらぬものがないほどになった。

 ロシアのそとの国で、このようなありさまなのである。本国のようすはいわずもがなであろう。

 幾千万のひとびとが、はじめて自由政治という名前をきいて、これにおどろき、そしてよろこんだ。これをたたえ、これに心酔(しんすい)し、ほかにかんがえることがないほどになっていった。

 彼らは雑誌に書かれていることにいっさいのうたがいをもたず、まるでこの雑誌に五体をあやつられているかのようでさえある。記者の言葉で人心をうごかすありさまは、かつてニコライが威圧をもってロシア全土を手におさめていたころとかわらない。

 ロシア政府はというと、きびしくこのコロコルの輸入売買をとりしまることで対処しようとした。ゲルツェンの名前をそえることを禁じ、はなはだしいことには、計略をめぐらせてゲルツェンは死んでこの世にはない、とまで宣伝した。

 が、それでもこの運動をとどめることはできなかった。ロシア全土、どこもコロコルを買えないところはなくなったのだ。

 1859年、ノヴゴロド市でいっときに10万もの部数を政府が没収してしまったことがある。ほかの場所に関しても、どれほどきびしい監視だったかは、いうまでもないだろう。

 この部数は海からはこばれたのではない。アジアの陸地からやってきたものだという。

 またこのコロコル、雑誌の話題をあつめるにさいして、内通のものがおおく役割を買ったという。政府の内部でひたかくしにされ、一部の大臣しかしらないような事情であっても、コロコルはすぐにそれをしることができるのだ。そのような事実を、公然と紙上に書きあげるものだから、政府もおどろくわけだ。

 コロコルのおこないがロシアのながい眠りをさましてから、人民はまるで狂ったかのように、あるいは目がつぶれたかのようになった。自分を有志と称すものが、ほかの仕事をすべて捨てて、雑誌、新聞紙の発行をこころみるようになったのだ。

 こうして1858年から1860年のあいだに、あたらしくおこった出版社の数は77社にもおよぶ。このうち50はペテルブルグにあり、15はモスクワに、あまりはおのおのの街に散っている。

 これら各社は、会社のさかえるためにほかの出版社とあらそい、自由主義の持論(じろん)をきそうために、記者をやとうのに金を惜しまない。

 ペテルブルグの富豪ベスボートコ氏は、毎週ごとに雑誌の草稿1ページにつき100ルーブル払うことにして、名文をつのった。モスクワの学者カトコフ氏は、月発売の出版社を買うために、みずからの私立学校をやめてしまった。

 また、政府の出版検査局で仕事をはじめてやろうとするものも増えてきた。人間の自由権利をとなえるのがこのころの時流というわけだから、その自由権利を利用して名誉を得るのが目的だ。

 出版を検閲するところで仕事を手にして、出版の制限をゆるめてやれば、おのずとこの時勢にあわせたことになる。そうしてこの人物は、政府をおそれない人物、という名誉を得ることができるわけだ。

 いままでのひとびとはみな、この検査局の悪名をおそれて働こうとしなかったのが、いまではかえって、こぞってこの職についてやろうとするようになった。

 金にゆとりのある市民、またはあてがわれる給料をうけるだけで、仕事があてられない暇な役人などもみな、この仕事をやりたがらないものはないほどだ。

 人情をたてまえとしてでたおこないだろう。

 あるいは、こういう話もある。出版検査の仕事について、自由な出版をさせてやろうとして、逆に政府の怒りを買って免職をうけ、家に財産もないために困り果てているものもいたという。

 ところが、ものの売買を仲立ちするひとびとの話しあいで、このひとびとを補助してやろう、ということになった。そうしてモスクワのクローズ氏などは、援助を得たためにかえって金持ちになったという。

 ロシアの自由説はもはや流行病とかわらない。蔓延しきったこの空気は、政府ですらとめられるものではなかったようで、ついに1861年2月、アレクサンドル帝は奴隷法をやめてしまうことにきめた。

 が、これだけでひとびとの心をおちつかせることはできなかった。

 数百年つづいた習慣を一瞬のうちに取っ払ったわけだ。奴隷と主人の人間関係など不便利きわまりない、というのはあきらかだが、奴隷法をあらためてしまうと、こんどはときはなたれた奴隷が、カゴからほうりだされた小鳥のように行き場にまようようになってしまった。

 自由をあたえられてはみたものの、彼らのゆくべき場所はどこにもなかったのである。

 また、この奴隷法とりやめののち、ペテルブルグとモスクワのあたりで、学生たちはほとんどロシア土着の本を読まなくなり、雑誌、新聞の論説に目をむけるようになった。ひたすら政治について語りあい、国事を議論し、あるいはそこらで集会をもうけて、そうでなければ政府に直接意見書をおくりつける。そのやかましさは政府にはこらえられないほどだ。

 そしてついに1861年5月、文部大臣プチャーチン(旧海軍大将で、ちかごろ日本から帰って文部大臣に転任した人物です)が、新法律をもうけて、大学の学費を増やしてしまった。

 半年ごとに50ルーブルを払わなくてはならないというのだから、学生たちは入校すること自体がむずかしくなってしまった。

 また、生徒たちがプライベートに結社をつくって、おなじ学校の貧乏学生をたすけるために、余裕のあるものたちでお金をだしあうことも禁じてしまった。このだされたお金のゆくえをきめる委員をえらぶこともやめさせた。

 しかし、さまざまに不自由な法律をつくりあげ、ひとびとのいいたいことをふさいでみても、わずか半年もしないうちに、また学生たちがさわぎはじめるようになった。ついに、数名の生徒を牢獄に押しこめるだけで、この文部大臣プチャーチンの策もたいして功績をあげられずにおわった。

 事態をおちつけさせるのはこれほどむずかしいのだ。

 これとおなじころ、モスクワにひとりの評論家で、さきほども紹介したカトコフというのがいる。

 このひとは、むかしからずっとイギリスの政治のやりかたを理想におもっていた。イギリスのように憲法による統治をのぞんでいたために、世間でもよくしられた人物だった。

 1862年の夏、このカトコフは政府から密命をうけて、ひとつの雑誌を発行した。この雑誌のなかで堂々と筆をふるい、ゲルツェンの自由説を攻撃したのだ。

 この本のなかで、自由説の過激さをとがめ、不公平な理屈を突き、ペテルブルグにさわがしさをもたらしたのは、この亡命記者だ、とたたいたのである。

 そうしていいたいことをひたすらいっていると、世間のひとびともはじめはただ、めずらしそうにこれを読んでいただけだったが、しばらくするとこの反論に感心するようになった。

 こうして政府批判雑誌「コロコル」の名声もおとろえてしまった。

 だが混乱はおわらなかった。

 こんどは1866年4月4日、モスクワの学生カラコーゾフという人物が、短銃をかかえてアレクサンドルを襲撃したのだ。結果は失敗だったが。

 このカラコーゾフをつかまえて、いろいろ詰問(きつもん)してみると、この人物は貴族でもなく、過激思想のおおかったポーランド人でもないとわかった。カラコーゾフはロシアを転覆することをのぞむ「社会党」のものだったのだ。

 そもそもこの社会党、さいきんペテルブルグとモスクワにあらわれはじめたものたちで、革命をおこしたドイツや、おなじく革命をねらうポーランド人は、これにはなんのかかわりもない。

 この社会主義は、もともとフランスから伝わってきて、さきほども紹介したゲルツェンがこの社会党の重鎮(じゅうちん)といわれている。

 とはいうものの、純粋な党員はそれほどおおくはない。政府のやることにたいして反論をぶつけてくるぐらいのものだったが、1863年になると、彼らの態度がかわる事件がおこる。

 不満の爆発したポーランドが武力蜂起をしかけてきたとき、ロシアはおなじく力で押さえつけた。それ以来、この社会党はロシア政府のやりかたに怒り、方法をかえ、ほかの自由党とまじりあったのだ。

 この自由党の持論(じろん)は、だいたいこうである。

「ロシアでおこなわれている『ひとりひとりがつくる農業生産を一定にする』という政策を、ポーランドでもつかえば、ついに地主をとりやめさせることができるだろう」だそうだ。

 それで、ひたすらこのことをとなえているのだが、この自由党のなかにいる過激派は、このかんがえかたをよろこばなかった。あまりにゆるく、おそいやりかただったからだ。

 不満をもった彼らは、ついにほかの党をおこした。

 こちらの持論はというと、人間社会にある秩序のすべてを無に帰してやろう、というものだ。ひとの財産を無にし、国を無にし、寺院を無にし、婚姻法を無にし、社会でのまじわりまでも無にする、など、なんでもかんでも人間がむかしからやってきたことをすべて一掃(いっそう)してやろうというのが、彼らのもくろみだ。

 このねがいを果たすには、まず自国の皇帝を殺戮(さつりく)して、これを無にしなくてはならない。そうしてから、ほかのものをつぎつぎに無にしようというわけだ。

 こういうかんがえの党員は、そもそもすくないのだが、このいきおいはきわめてたけり狂っている。

 これを「ニヒリスト」の党という。ニヒリストとは虚無、という意味だ。

 このニヒリストの党員は、世のなかにはなにもかも必要ないとかんがえ、ただ在来のものをみな破壊して愉快におもうわけだ。

 ゆえにこの虚無党と自由党とをくらべてみると、かんがえかたには天地のちがいがみてとれる。が、両者のみているものに共通のものがないわけでもない。

 すなわち、貴族をだいじにして人間の身分をわけることを憎み、または貧富の差をつくって自分だけが私腹を肥やすことを憎むところなどは、自由党がつねに主張しているところだ。虚無党もやりかたこそちがえど、おなじことをいっていたので力を得たわけだ。

 こういう事情なのだから、政府が国にいるすべての自由党をとおざけ、政敵とみなすのはとうぜんのことといえる。

 この自由党を鎮圧するためには、保守と専制の力を強化せざるを得ない。

 まず、シュヴァーロフ候をよんで警察長官にし、つぎに悪党のカラコーゾフとそのすみかである自由党を監視するのにムラヴィヨフ候をよんだ。そして政略の手はじめとして、文部大臣ゴロヴニンをとおざけて、シュヴァーロフ長官の友人ホルストイをつけた。

 ゴロヴニンが解任されたのは、彼が世界じゅうでやっている人文、社会学、教養学をすすめたために、勉強者たちは便利になって、ついに社会党や虚無党などがつくられてしまったことを責めてのことだ。

 そのほかにも、おおぜいの大臣を辞職させたり、あるいは地位をあたえたりして、政府はみずからをかんぜんな保守主義の政府とかえた。

 それから翌月(さきほども紹介した、カラコーゾフによるアレクサンドル帝暗殺未遂から一ヵ月後の、1866年5月)、アレクサンドルは詔勅(しょうちょく)をくだした。

 だいたいをのべれば、こうなる。

「さいきんあきらかになった社会党の陰謀は、国民の権利、私有財産、宗教を破壊することにあるという。このようなくわだては、このあいだ捕らえたカラコーゾフの暗殺未遂によって、すでに明白となっている。

 この罪は憎むべきものだ。彼らはわが政府の寛大にして慈悲ある政治、自由な気風を誤解したのだ。

 今後、皇帝はますます人民の権利や財産を守るために、国内の貴族をよく保護し、むかしからあるものをたもちつづける。

 もし、この目的を邪魔するために反乱などをくわだてるものでもあれば、これらを殲滅(せんめつ)することに全力をむけて、けっしてゆるすことはないだろう」

 だとかいって、ついでモスクワで出版されている新聞紙をさしとめ、雑誌でゆるすのはただカトコフの出版するもののみとした。(すこし前で紹介した、コロコルに反対意見をたたきつける雑誌だ)

 そうして政府の政略は、むかしのかたちをしたまま1870年代となった。

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