第四章 この利器を利用して勢力を得るの大なるものは進取の人に在り。魯国及びその他の例を見て知るべし。(3)

 以上が「ロシア近世史」のおおまかな話です。

 ひとの心がみだれはじめたのは、ニコライ帝が在位したころからです。それからというもの、ひとびとの主張と政府の主張とがたがいにぶつかりあい、一進一退、おわらせるところをしらなくなったのです。

 1870年以降にしても、状況はそれほどにかわっていません。政府は人民を意のままにできず、人民もまた政府をおもうままにできず、衝突はなおはげしくなりました。

 これをしたためている1879年の4月にしてもそうです。「土地と自由」党のソロヴィヨフという男が、散歩をしている皇帝アレクサンドルを狙撃するという事件がおこったといいます。あの国のありさまは、これ以上いうまでもないでしょう。

 人民も政府もともにうろたえて、ゆくべき方向にまよっているかのようです。

 そもそも人民自由説というのは、その由来をたどってみると、きわめて古いものです。アメリカが建国となったのも、この説があったからで、つまりはすでに100年はたっているということになります。

 そういうわけなのだから、世界じゅうでとなえられているこの自由論は、年月もたっており、そのために実行する人物もおおく、したがって自由論の著書もすくなくないのです。地球上のあるところでは、すでに陳腐にさえなっています。

 1800年代のはじめごろまで、この説を伝え歩く方法が弱かったために、世界じゅうのたくさんの人民がこの自由説をしらなかっただけです。

 そこに、ここ3,40年前から蒸気、電信、印刷、郵便の方法が進化したわけです。人民の行き来をたすけ、物品の運送を便利に、公文書の配布を速く、ひろくできるようになったのは、まるで全世界に思想をめぐらせる道が通じたかのようです。

 これをもっとたとえるなら、学者や論客の話は、大地でとれる収穫物のようです。蒸気、電信などはこの収穫物をはこぶ船や車です。

 地方にどのような名産品があろうとも、はこぶための船や車がなければ、世のなかにこの名産品をしって、つかおうとするものはありません。

 学者の新説も、伝えるための道具がなければ、ひろくひとびとの心を鼓舞することはできません。

 さいきんでも、イギリス、フランスその他の国には、有名な先生がおおくいます。その先生の話をよろこんできこうとするものも、世界じゅうにたくさんいます。

 が、もしもこの有名なひとびとを、1700年代以前におくりこみ、その彼らの住む世界に蒸気文明が生まれなかったとしたら、どうなるでしょう。

 新説のいきおいもいまのようにならないのは、知識者を待たなくともあきらかでしょう。

 たとえば1770年代のことです。

 アメリカに「トーマス・ペイン」というひとがいました。思想家で「コモン・センス」という本を書いたひとです。

 この本の自由論はきわめてさかんなものでしたが、ただアメリカのひとびとをゆさぶっただけにおわりました。

 世界のほかのところで、このひとの本が読まれることはなかったのはなぜでしょうか。

 ただその時代に、この自由説を世界じゅうにばらまく方法がなかったからです。

 もとより、人民が「身のまわりのものを守ってほしい」と権利をとなえたり、自由の味をしろうとするには、多少なりとも人民自身も知恵や道徳がそなわっていなくてはなりません。

 また、それにくわえて、国にはそれぞれ習慣というものがあります。教育のしかたも国によってちがい、貧富にもちがいがあります。説にもよればその国の体になじまないものもあるのです。

 そんなわけだから人民たちも、かならずしも、みたこともない説を耳にするだけでしたがうことはありません。

 が、そんなところであっても、さまざまな理由で人民の地位が高まり(つまり、わが国のように、だれも自分のかんがえで自分の説をとなえても罰せられないぐらいの地位があたえられることです)、すすんで文明を追い、自分の権利をかためられるような立場になりながら、なおためらい、だまっているのは、つまるところ新説をゆきわたらせる方法がとぼしく、地方人民の見聞がせまいためといわざるを得ません。

 ロシアであればピョートル大帝のころから、衣服もやっとゆきわたり、教育もすすみ、人民が自由をとなえるだけの土台がととのいはじめました。そのありさまとなったとき、ヨーロッパ諸国から新説がはいってくると、ひとびとはその説のすごさをきいておどろくのです。このさわぎぶりは、けっしてぐうぜんではありません。すごい説をきけば、これがすごい説とわかるようになっているからです。

 1800年代にこういう原因があって、内外の事情がこのようにみだれてしまったのは、とうぜんの結果というべきものです。

 自由、進歩のことでやかましくならざるを得なくなることで、官も民もうろたえて、ともにどうすればいいか方向にまよう、というのはロシアだけではありません。

 ドイツやそのほか、君主政治のやりかたで人民を御してやろうとする国はみな、困難をおぼえないところはないのです。

 また、政府が自由論のいうようにことをなしてやろうとしても、論者の要望はおおきすぎて、じっさいにかなえられることがないのです。かといって、この論者をうっとおしがって排斥しようとしても、論者の力もまた弱くはありません。

 したがうようで、排斥するかのようで、あいまいのうちに一日がおわることもおおいのです。はなはだしいことには、国内の反対派の意見をはぐらかしてしまうために、ことさらに外国に戦争をしかけ、それでとりあえず人心をおちつける、というような奇計をめぐらせるものもいます。

 フランスのナポレオン3世がこれです。

 この四章のはじめのところでもいいましたが、人民はこの蒸気という道具を手にいれ、翼がはえたかのようになりました。そのいきおいで政府にはげしく衝突すると、この威力は蒸気文明以前とはくらべものにならないほど残酷になります。

 ついには、狙撃や暗殺という暴挙にいたるのです。ナポレオン3世が在位していたとき、それからいまのドイツなどが例となるでしょう(フランス皇帝、ドイツ皇帝、それからおなじくドイツの大臣ビスマルクなどは、たびたび暗殺の憂き目にあったことは、新聞紙をみてもわかるでしょう)。

 いまのことを文明の幕開けと称するのなら、ひとびとは道理に目ざめているはずです。こういう暴挙はすこしずつへっていくのがとうぜんです。

 が、反して1800年代という美時代に不似合な、こういう暴挙がおおいのは、どういうことでしょうか。しかもこの3、40年前ほどから、「ヨーロッパの文明のかたちをあらためた」とまで称したそのころから人心がおだやかにならなくなったのはなぜでしょうか。

 ふしぎのようにおもえますが、けっしてふしぎではありません。

 おもえばいまの世界人類は、つねに理屈と心情のあいだにゆれうごいており、帰るべきところをみうしなっているのです。

 これはつまり、こまかなできごとは理屈のなかで片づけられるのですが、おおきなできごととなると心情がゆさぶられる、ということです。こまかなできごととは、たとえば、日常のかんたんな仕事などです。おおきなできごとというのは、たとえばこれからおこることの成否で自分やひとの命にもかかわる、とでもなれば、やはり死に物狂いになるでしょう。

 人間がこの心情の波にゆさぶられて、ふつうはしないような暴挙におよぶというのは、だれにもとめられないことです。ただ人類に道理をおしはかる力がないのをかなしむのみです。

 そうして、この心情の波を引きおこしたものとはなんでしょう。

 1800年代に発明されてきた、蒸気機関車、蒸気船、電信、印刷、郵便のようなものたちといわざるを得ません。

 1800年代、産業革命によって西洋に近代文明が生まれる前までは、暗殺のような暴挙はほとんどなかったのに、近代文明にはいってからそれが増えたということは、ヨーロッパ史をみればわかるでしょう。

 また日本でも、むかしから暗殺や謀殺などがなかったわけではありませんが、たいていは親のかたきを討つためか、そうでなければ主君への忠義のためか、敗軍のうさばらしのためか、自分自身の恨みのためか、いずれにしても、どこかしらに自分自身に直接かかわりのあることが、暗殺にむすびついていたのです。

 それが、いまから20年ほど前から、江戸の桜田門のところで徳川幕府の大老井伊直弼を暗殺されることをはじまりとして、幕末のおわりにいたり、さらには明治維新をむかえても、政府の要職のひとたちが暗殺されたり、もしくは暗殺されかけたりしたのは、数回にもおよぶようになりました。

 その目的は、たいてい私怨ではありません。復讐でもありません。

 政治のことに不平をいだいて、その熱に狂ったものです。

 ほかに原因があったとしても暗殺者が口実とするのは、かならず政治上のことをいわないものはないのです。

 こういう暴徒は幕府がはじまって250年のあいだには、ほとんどいませんでした。

 ですがこの20年前から、しきりにあらわれるようになったのはなぜでしょうか。

 20年はわが国が開港し、近代文明をとりいれたふしめです。

 その近代文明がもたらした大変動のために、ひとびとがおどろき、狼狽したのだといわざるを得ません。

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