ときどき、大学のお師匠様に言われたことを思い出す。

いくつもあるけれど、そのうちの一つは『経験と体験の違いを説明できるか」だった。

答えは、経験は人から聞いたことや読んだものも含まれるが、体験は自らがそこに行って、自分の目で通して見て、聞いて、嗅いで肌に触れること。

当時もそういった感じで答えたし、正解とも言われた。本当かどうかは知らないが、2011年の東日本大震災を体験したウチのお客さんの中に『津波に襲われたが、マンホールの中に逃げたことで生き延びた』と語った方がいた。

これを聞いた、ということは、経験を積んだと言って差し支えないらしい。体験は難しくとも、人間は経験は積みやすいことになる。

福沢諭吉、学問のすすめのくだりに、漢学の有名な先生に、吉原の女が使う化粧道具を、便利だからと筆入れにしていた人物の話があった。念のため付言すると、吉原とは要するに売春をなりわいとする場所のことだ。

なんでもその先生は、その道具が、吉原で用いられるものと知らずに使っていたらしい。それを見た弟子は、なんと清廉な人物なのだろうと誉めたそうだが、福沢の論理は違った。

それはただの世間知らずだ、そんなものは褒めるに値するものではない、と。

たとえば誰かの訃報を聞くときに、誰それ知らない、俺そんなもの見たことないからわからない、と言って喜んでいるのは、世間知らずを表明しているに過ぎないのである。

上記にしるした大震災の話は、真偽は不明だ。だが鵜呑みにするよりはいい。インターネットの手軽すぎる書き込みは、信じる価値があるかにおいては、なおさらだ。

対面で話すのと、素性を隠して無責任に書き殴るのは、もとより信頼性が違う、というべし。自覚している、していないにせよ、対面で話すものは、もしもそれが嘘であれば、その責任を被らねばならないが、インターネットの書き込みにはそれがないからである(名前と顔を出している人間がそれをやれば、また話は別だが)。

これもまた福沢の言葉だが「学問とは、こういう真偽を見極めて他者に踊らされないためにするものだ」と語っている。


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