その世界は寒い。もっとも低い温度である絶対零度から、数度高い範囲でしか存在しない。そんな凍りついた場所ではほとんど何も起こらないだろうと考えるかもしれないが、それは真実とはあまりにほど遠い。超現実に近いとんでもない世界で、ルイス・キャロルにふさわしいくらいだ。
その世界に足を踏み入れる一つの方法として、液体ヘリウムを2Kより少し高い温度にまで冷やす。おそらくはじめに気づくのは、ヘリウムをかき回すといつまでも回転しつづけることだ。粘性を持たない液体状態、「超流動体」になったのだ。
超流動体の性質としてもう一つ面白いのが、容器の壁を登っていくことである。超流動ヘリウムの容器の入った桶から容器で少しすくい上げると、容器の壁を登って縁を越え、容器の外側を流れ下ってもとの場所に戻るのだ。
重力に逆らうこのような異様な挙動は、見ているのはとても面白いが、おそらくそんなには役に立たないだろう。もっとずっと実用的な価値があるのが、超流動ヘリウムの奇妙な熱的性質である。
冷蔵庫からふつうの液体を出してくれば、そのうち温まってしまう。しかし超流動体には、もはやふつうの規則は当てはまらない。熱があまりに速く拡散するため、超流動体は温まらないのだ。スイスのジュネーヴ近郊にあるCERNの大型ハドロンコライダー(LHC)で働く研究者は、陽子ビームを加速させるのにこの性質を使っている。一周二七キロの加速器の周囲に一二〇トンの超流動へリウムをパイプで流すことで、粒子ビームを導く何千個もの電磁石を冷やしているのだ。通常の液体ヘリウムをこのように使ったらかなり温まってしまうだろうが、超流動ヘリウムの異常な熱的性質のおかげで、温度はビームリング/キロメートルあたり0.1K足らずしか上昇しない。宇宙に存在する力や構成部品の究極の秘密を解き明かしてくれると、大勢の物理学者が期待しているこの装置は、もし超流動体がなかったらきっと作れなかっただろう。